
みなさん、こんにちは!
タカミチです。
今日は天皇陛下のご生誕の日ですね。
心よりお祝い申し上げます。
昨日の記事「神様を信じるための具体的方法(前編)」で、神様を信じるための具体的方法を書くつもりでしたが、もう少し分かりやすくまとめる必要があるため、今日は「悟る」「真理に気づく」「覚醒する」ということについて、「実際にはどういうことなの?」ということについてざっくり考えを書いてみたいと思います。
これらに近づく、達成する目的を考えてみましょう。
まず最初に、以下の空海の有名な言葉は、ほとんどの人間の在り方を表したものです。
「生れ生れ生れて生の始めに暗く死に死に死んで死の終りに冥し」
意味:ほとんどの人は輪廻転生により何度生まれてもこの世の真理に気づくことなく暗闇の中を生き、学習することなく何度も暗闇の内に死を繰り返す。
「四生(ししょう)の盲者は盲なることを識(さと)らず」
意味:生きとし生ける真理を知らない人々は、自分が何も見えていないことにすら気づいていない。
いやー、厳しい言葉ですね笑
空海がここまで世の人々の真実をえぐるような言葉を遺した理由は、いくら説いても真理に気づける人はごく僅かであるという、この世の無常を憂いてのことでしょう。
人々を卑下したいわけではなく、その逆に愛が深すぎるあまり絶望の想いからこの言葉を遺したのだと感じます。
「もうっ、何でこんな単純なことに気づかないの!?」
というもどかしい想いがあったのでしょう笑
でも、これは仕方の無い事だと感じます。
「真理に気づく」ということは、すなわち「すべてを受け入れる」ということと同義だからです。
生老病死含めて、己に対する不足、対人関係の辛苦、万物から受ける影響、、すべてを在りのままに受け入れる必要があります。
すべてを在りのままに受け入れるには、器を大きくするための多大な努力を必要とします。
いや、器を大きくするというより、すべてを吸収・昇華してしまう、柔よく剛を制す水のような心の境地でしょう。
そんな多大な苦労を払ってまで「真理に気づく」ことに何のメリットがあるのか?
ここが不明なので、ほとんどの人は「悟りを開く」ことに興味を持ちません。
ほとんどの人は、この努力をするよりも、一生眠ったままでもいいので、一生不安が付きまとってもいいので、適度に自堕落に目の前の楽しい事だけを追求して生きたいのです。
でも、この生き方にはひとつデメリットがあります。
魂の修行のために永遠に輪廻転生が続くため、未来永劫、辛苦から逃れることができないということです。
魂の最終目的は、この現実界で魂の修行をして真理を悟り、魂の修行を卒業して輪廻転生を終了させること。
そして、あの世に未来永劫安住しながら神様と共に全次元の運営に貢献することだと感じます。
神格高い魂があの世においてハッピーに生活することは、ひいては多大な歓喜を生み出し、神様や全次元がさらに弥栄えるという永久機関となるのです。
多くの人が真理に目覚めれば、この現実界において戦争も無くなりますし、神様を煩わせずにおのずと種の進化を達成できると感じます。
これが、「真理を悟り覚醒する」ことの最大の目的だと感じています。
でも、毎回の人生をそれなりに楽しく過ごすことが出来るなら、例え輪廻転生が永遠に続いても受け入れる人が多数かも知れません。
毎回の人生で、過去生の記憶がリセットされるのですから、「今生を楽しく生きられればそれでいい」と思うことでしょう。
それでいいと思います。
「真理を悟り覚醒する」ことに魅力を感じる人は、死後の人生も含めて考えられる人に限られるからです。
生後が陽であり、死後が陰、陰陽併せて魂のひとつの人生なのです。
誰もが死後の世界に気づけるような時代にならなければ、「真理を悟り覚醒する」人は増えないでしょう。
ただ、覚醒にも段階があって、誰しも一度は「あ、なんか人生というものが分かった気がする」という瞬間があります。
こうした悟りを得たような感覚になる時がありませんか?
これも立派な悟りですが、日常にすぐに埋もれて忘れ、いつの日か再び何かを悟る、を繰り返して成長していきます。
そして人生で何度も悟りを繰り返し、その中で死後の世界があることを知り、「真理を悟り覚醒する」ことに興味を持つ人も出て来るでしょう。
完全に覚醒せずとも、ある程度目を覚まして生きて行くことはとても大切です。
この世は、目に見えないところに真実があり、それを見落とすと時として不幸や死に直結するからです。
これからの時代は、さらに真実を見極める目が必要になります。
「自分は少しでも目を覚ましているのだろうか?」
と、思い出した時に自問することは、少しでも覚醒を促すことに繋がるでしょう。
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
お読みいただき、ありがとうございます😄