
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
タカミチです。
「たまむすび」を2022年に立ち上げてからというもの、このブログの在り方を考え続けて来ました。
管理人の僕の素性は明かさずに、ただ淡々と人生論が更新されるブログの方が読みやすいのか。
それとも、素性を明かして人間味が感じられるブログの方が、読者様にとっては面白いのか。
こうしたことを考えながら更新してきたので、ブログの在り方がブレブレだったのです笑
前者の在り方を取ると、真我を意識した口調になりますので、お坊さんの説法を聞いているような文章になるでしょう。
後者の在り方を取ると、自我を意識した口調になりますので、くだらないおじさん風味が強くなります。(寒いジョークが入ったり)
でも、ひとつのブログを長く読むなら、やっぱりブロガーさんの日常や成長が感じられる、人間味のある方が面白かったりするわけですね。
人生論に説得力を強めるなら「得体は知れないが凄そうな人」に感じさせる前者の口調が良いのだと感じますが、管理人が謎に包まれたままそれが続くだけのブログは少々味気ない気がすると感じます。
そうした考えから、自己紹介を兼ねて、僕がこのブログで発信するような考え方を持つに至った経緯について書いておこうと思います。
僕はどちらかと言えば”一般的では無い人間”ですが、その一方でどこにでもいる普通のお節介おじさんを自負しています笑
ブログ更新を通して、日々僕も成長の機会にさせて頂いているので、今後も成長を見守って頂ければ、これほどブログ冥利に尽きることはありません。
目次
現実界的な楽しみを捨ててまで、神様探究の道に入った理由
僕は、はっきり言って物好きなタイプでも、変人に思われるようなタイプでもありません。
前述の通り、どこにでも居るちょっとお人よしなお節介好きのおじさんを自負しています笑
でも、明らかに普通ではない部分も持ち合わせています。
でなければ、わざわざ現実界的な煩悩・楽しみを捨ててまで、神様探究の道に入ろうとは思いませんよね。(家族との質素な生活は楽しんでいますが)
まぁ、お釈迦さまや修行僧のように、全ての財を捨て去ってお布施で生きているわけではないので、僕のようなレベルはまだ生ぬるいと思いますが、現代においてはもはや修行僧のような苦行はまったく必要ではないと感じます。(過去には有効だったと思います)
この究極的な煩悩の時代は、そこに執着することから離れて、最大限に精一杯前向きに、ひたむきに生きることが、現代での修行だと感じますし、世俗から離れて修行するよりも、その方がずっと難しいでしょう。
僕も人並みに物欲・性欲はありましたし、金銭欲を追い求めた時代もありました。
これらは完全に消えたわけでは無く、今も持ち合わせていますが、コントロールをする事により無いに等しい状態にしているだけなのです。
記事「2023年は心の悪魔との闘いの年【ハルマゲドン】」で書きましたが、これが僕の中に残存する”悪魔を呼び起こす正体”です。
悪魔の年である今年に入った瞬間(元旦0時)に、欲望の想念が呼び起され「今年は覚悟しろよ!」と悪魔から囁かれました。(ちょっと衝撃を覚えました)
現実界的な楽しみを犠牲にしてまで、僕が神様探究の道に入った理由、、それは「宿命だと感じているから」としか言いようがありません。
僕の魂が背負っている宿命として、僕の真我(魂)が高校生くらいの頃から、そうした方向に仕向けて来ました。
こういう風に書くと、途端に胡散臭くなるわけですが、あるきっかけで僕の中で”目覚め”が起きた瞬間から、それまでの人生のあらゆる出来事の点と点が線で繋がり、高校生の頃から抱えてきた人生に対する矛盾・疑問が腑に落ちて、晴れ渡りました。
出来事を一つ一つ書くと長くなるので割愛しますが、例えば、幼稚園時代に真剣での決闘に挑んだり、社会勉強と称して夜の街で働いたり、100人のビジネスチームの副代表として活動し、電通OBの出資で起業し社長に据えられそうになったり、などです笑(振り返ると、結構濃い体験をしているものですね)
こうした出来事も、機会があれば人生論とは別にして書いてみたいと思います。
目覚めた直後の僕の反応は、「、、俺は一体何者なんだろう。。」という戸惑いでしかありませんでした。
でも、今なら分かりますが、数千年の地(血)の時代が終わり、風(霊)の時代を目前としている現在では、僕と同じ様に”魂の目覚め”を体験している人が増えているだろうと感じますし、そうした様子を目の当たりにすることがあります。
2039年の弥勒の世の到来に向けて、着実に日本人を中心に”目覚め”が始まっています。(娘もそうなのかも、、)
僕が”スサノオ”にこだわる理由
僕の魂が請け負っている宿命は、「スサノオの代弁者の一人として世に伝えること」、「弥勒の世への橋渡し役になること」だと感じていて、そうした天啓を受けてきました。
僕が”スサノオ”にこだわる理由はたくさんあります。畏れ多い内容を含みますが、いくつか書いてみましょう。
僕は不動明王様(スサノオ)の因子があると勝手に思っている
高校生の頃に、自我が強く、倫理観を失いつつある人類に対して強い怒りがあり、「なぜこんな不動明王のような怒りが湧き上がるのか」と思っていました。
不動明王は比喩表現であって特に意味は無かったのですが、最近調べてみたらスサノオと同一神でした。(ヤッパリネ、という感じです)
大谷翔平選手のお父様は不動明王の霊的因子を持っていると言われていますが、僕も勝手に「あれ?もしかして僕もそうなのかな?」と勝ってに思っています笑。
そうした因子があると体格が良くなるのですが、僕も一般男性よりも骨太で、「骨太いですね」とか「アメフトやってました?」と言われることもありますし、実際の身長よりも5センチほど高い180㎝以上に見られがちです。(若い頃は、脱いだら凄そうとよく言われました笑)
陰陽師・安倍晴明の胸の前に掲げる2本指は、不動明王の剣「倶利伽羅剣(くりからけん)」を意味しますが、祓いについて考えていた日に試しにやってみたところ、崇敬神社で100羽ほどの鴉が集まってしまって囲まれてしまい、帰りの車の中に窓の外から蜘蛛が飛び込んできて、車の中に蜘蛛の巣の結界を張ってしまったことがありました。
毎月28日は不動明王の縁日と言われていますが、僕の誕生日は1982年2月28日です。
こじつけですが、(人生の)1(はじまり)9(おわり)において、2(陰陽)を中心に、82(陰)・28(陽)となります。
人生の徹頭徹尾、不動明王で在りなさい、と。(だから幼稚園時代に文字通り、”真剣”勝負に巻き込まれたのかな?)
こうしたこともあり、畏れ多いとは思いますが、心に不動明王を持ち続けることを意識するようにしています。
ちなみに、昔母が僕の運勢について有名な易者に占ってもらった時、文豪・三島由紀夫さんと同じ星回りだと言われたそうです。
ただ、三島由紀夫さんにあった破滅の星は僕には無いので、自殺の心配は無いとのことですが、やっぱり極端な人生になりがちなようですね笑
最近まで気にして無かったので、易者が書いた運勢表を観ていなかったのですが、好奇心で見せて貰ったら、近親者の死の時期を含めて現在までの因果の流れがピッタリで、自分の死期まで書いてあったので「怖~!」と、ちょっと観たことを後悔しました。
僕がいつまで生きるのかは、、内緒ということで。
三島由紀夫さんが割腹自殺をするほどの、不甲斐ない国民への怒りは、不動明王の怒りだったのだろうと思えてなりません。
東宮のスサノオ様に縁がある?
2020年11月8日に、皇居にて儀式「立皇嗣宣明(せんめい)の儀」が執り行われ、天皇陛下が皇太子の「守り刀」として伝わる「壺切御剣(つぼきりのぎょけん)」を秋篠宮さまに授けられた。
この「壺切御剣」は、皇位継承者の印として時の天皇から下賜されるのですが、西暦893年に宇多天皇が後の醍醐天皇に授けたのが始まりだと言われています。
父方の家系図をたどると宇多天皇に行きつくのですが、幼少期に「東宮のスサノオ様」と呼ばれた秋篠宮様と、亡き義母は同じ誕生日で、義母の死をきっかけとして鉄都・八幡に引っ越して来ました。
そして、すぐに八幡の街で畏れ多い様々な体験があり、僕の神様探究の道がスタートしたのです。
義母の御手洗家は八幡神系の神社の家系ですので、調べれば何かしらの縁がまだ隠れているかも知れませんね。(義父方はお寺系です)
ちなみに、妻と義妹の名前にはスサノオの因子(ミカエル・スサナオ)があり、義妹はスサノオの娘・宗像三女神の地域に住んでいます。
僕の母は、秋篠宮様の奥様であられる紀子様と同じ誕生日です。
うーん、、畏れ多いのですが縁を感じざるを得ないのですよね笑
スサノオに縁の強い作品に携わった
僕は21歳の頃から約7年ほど、とあるゲーム会社にて『NARUTO-ナルト- ナルティメットヒーロー』シリーズの制作に携わっていました。
週刊少年ジャンプで長年連載された岸本斉史先生の漫画作品で、現在も続編の『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』が連載されています。
この『NARUTO-ナルト-』も神様のインスピレーションが働いている作品だと感じますが、大局的にはナルト(陽)と、サスケ(陰)の陰陽和合の物語です。
「相克し合う陰陽が和合した時に、新たな生に繋がる」ということを暗に示唆していると感じます。
善と悪を超えることは、この世が”万事塞翁が馬”の世界である、ということを教えてくれる、、「諸行無常の大切さ」を教えてくれる、そういう作品だと受け取っています。
万華鏡写輪眼でスサノオを使うサスケが、悪として大暴れした後に和合するも、「全ての憎しみを背負う火影」になることが目的だと明かしたことは、「記紀神話」のスサノオそのままですね。
スサノオとは、人類の罪すべてを背負って根の国底の国に下り、改革をすることを象徴とした神様です。
『naruto-ナルト-』が分からない方にはチンプンカンプンな話で恐縮ですが、この作品に関わったことが「たまむすび」での「鳴門神示」に繋がっています。
また、当時のチームの友達らが中心となって最新作『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』を制作していますが、燃えるような怒りをもって鬼を斬る竈門炭治郎の生き様は、邪を祓う不動明王の剣であり、スサノオの祓いそのものです。
これらの縁を生んだきっかけは、中学時代から好きだった画家・小林智美さんの絵に惚れ込んだからであり、特に心の一枚になっているのが「Hungry Lover」で、当時勝手に「スサノオみたいでカッコいい」と思い込んで以降、ずっと僕の中では「根の国で祓いの神剣を振るう若きスサノオ様」になっています。
これを書いていて、おそらく十数年ぶりに「Hungry Lover」を検索したら、なんと中古で出品されていたので衝動買いしてしまいました!。
長年手に入らず諦めていたのに、まさかお手頃価格で手に入るとは、、久しぶりに物欲が解放された瞬間でした笑
こうした作品に深い縁があることも、スサノオ様の神縁を感じざるを得ないのです。
僕が「日月神示」で示す”因縁の身魂”のひとりだったなら
「日月神示」によれば、弥勒の世への橋渡しを行う”因縁の身魂”は、59人居ると示されています。
上つ巻【第13帖】合せて五十九の身魂あれば、この仕組みは成就するのぞ、この五十九の身魂は神が守っているから、世の元の神かかりて大手柄をさせるから、神の申すように何事も、身魂磨いてくれよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合わせてよき世の礎となるのぞ、この身魂はいづれも落ちぶれているから訪ねて来ても分からんから、よく気をつけてどんなに落ちぶれている臣民でも訪ねて来た人は親切にして帰せよ、何事も時節が来たぞ
僕がその59人に入っていても、いなくても、基本的に気にしませんが、仮に入っているのだとしたら、「確かになぁ」と感じる記述が多々あります。
特に、上記の、「この身魂はいづれも落ちぶれているから」という点は一番当てはまっていると感じます笑
これは、とても論理的であり、道理が通っていると感じる話なのです。
何故なら、順風満帆に成功して余裕のある人生を送るようになってしまうと、「生きている原点へのありがたさ」に気づくための難易度が、非常に上がってしまいます。
数万円のディナーを余裕で食べられるような身分の人が、一膳の白ご飯を食べられるありがたさを身に染みて実感することが出来るでしょうか?
最高水準の医療を受けられる身分の人が、お金が勿体無いから普段から病気に成らないように節制した生活を送ろうと思うでしょうか?
今すぐにでも地球の裏側に旅行に行けるような身分の人が、自分が行きたい場所へ行けることを”いつか叶うかも知れない縁任せ”にするでしょうか?
何でもお金で解決できてしまう身分の人が、自分がやりたい事を我慢して、他人がやりたい事が叶うように、神様に毎日祈りを捧げるでしょうか?
これは極端な例ではありますが、因縁がある身魂ほど苦労の多い人生を歩むような因果があるというのは、こういうことだと感じます。
つまり、”落ちぶれなければ”、普通の生活すらできずに翻弄されて生きている底辺の人々への共感も出来ません。
”落ちぶれなければ”、現実界の全ての現象に囚われることはまやかしであり、現実界において制定されてきた上辺や底辺の序列はそもそも無意味であり、人間(魂)の本来の生の本質は”神と共に在りのままに存在することにある”という、諸行無常の真(神)の意味を理解することが出来ません。
だから、因縁の身魂は、神様がそうした方向に因果が働くように試練を課す特殊な存在であり、気の遠くなるほど輪廻転生を重ねてくる中で、神様が「この身魂を遣おう」と選び取った身魂なのだと感じます。
しかし、この身魂も心を掃除することを忘れ、堕落してしまった時には「他に替えの身魂はいくらでもあるのだから気を付けよ」と日月の神様はおっしゃっています。
仮に僕がその因縁の身魂のひとりだとすると、一番苦労するのは、僕のように何をやろうとしても自然と落ちぶれる方向に流されてきたような男と結婚した妻なのかもしれませんね😅(いつも一番笑っていますが笑)
その一方で、実は最近、この落ちぶれる因果から脱出する方法を見出しつつありますが、それは現在進行形で検証中なので、今後明らかにする時が来るかも知れません。
「たまむすび」では、僕が現在進行形で成長し気づいて行くこの世の真理を、面白く、分かりやすく解説していけるブログにしていければと考えています。
もし、「自分は五十九人の身魂のひとりだよ~!」という方がいらっしゃいましたらお声がけください笑(軽ッ)
誰しもが自由に”スサノオの代弁者”に成ることが出来ます
”スサノオの代弁者”になるというのはつまり、「周囲の人に思いやりを持って接し、その影響を意識的に拡散していく」ことだと感じます。
また、あらゆることへの執着を捨てるように努力をし、その素直さ(スナオサ=スサノオ)を伝播していくことです。
全ての人間には、等しく内在神様が宿っていますので、その意思表明が可能です。
日月の神様(国常立太神様=地球霊)も「日月神示」において、「この道の役員はおのれが自分でおのづからなるのぞ。 それが神の心ぞ。 」と説いています。
一人が目覚めると、1000人の心を救うことが出来るとありますので、たった一人の目覚めでも人類にとっては非常に重要なことなのです。
1000人が救われ、その中の一人がさらに目覚めれば、さらに1000人が救われることになり、その輪は拡大します。
神様は、人類にこうした心の輪を形成することを期待しているのです。
日土柱(ヒトバシラ・人間・器)に神様が入り、神柱(神人)となります。
この神人に成れる人を、弥勒の世までに少しでも多く増やすことが「たまむすび」の壮大で畏れ多い望みでもあります。(僕も頑張らないと!)
僕も、その神意に沿っているだけですし、初めて戴いた天啓が「そのまま神意に沿っておればよい」という、崇敬神社で引いたおみくじにそれだけがデデンと書かれてあった畏れ多い神示でした。
あなたもそれを己の宿命として受け入れた瞬間から、天啓が訪れるようになるでしょう。
この天啓とは、前述のような文字であることは稀で、ほとんどの場合は日常で目に付く数字になると感じます。
僕が「弥勒の世の橋渡し役」であることに気づいたのは、その頃にくどいくらい「8888(ハシ)」の数字を目撃したり、急に行かなければいけないと感じて参った住吉神社に、象徴するような立派な橋があって「あ~これを見せたかったのか」と直感したためです。
それ以降は「8888」を観る頻度は収まり、2022年は「22(フジ・富士・不治・不死)」、2023年は「666(獣の数字・ミロク)」を異常なほど目撃し続けています。
ちなみに2023年は悪魔の年と記事「2023年は心の悪魔との闘いの年【ハルマゲドン】」で書きましたが、最近になって「666」の数字は不吉な象徴ではなく、実は「弥勒の世移行へのスイッチが入りました!」という暗示なのかなぁ、と感じています。
一日に数回、「666」の数字を観たり、聴いたりするわけですから、否応なしに「人と獣の縦分け」と「弥勒の世の暗示」を意識させられます。
そして、最近気づいたのですが、今年はやっぱり「天に任せるスイッチ」が入ったようなのです。
この事についての記事は「<第九回タカミチの世見話>任天堂Switchは、日本の陰陽を示唆していた?(仮)」にてご紹介いたします笑
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
明日も善い一日となりますように😌