
みなさん、こんにちは😊
タカミチです。
前回のブログ『孤独感を和らげていくために必要な考え方「”絶対の幸せ”vs”相対の幸せ”」』で、”勝ち組、負け組”の価値観から離れることで、どんな時も安心して居られる”絶対の幸福”に繋がって行くことを書かせていただきました。
今回はその続きとして、以下の2点
- ”絶対の幸福”とはどういう状態なのか
- ”相対の幸福”との距離感の取りながら”絶対の幸福”に向かう方法
について、詳しく書いていきたいと思います😄
目次
極貧だった平安時代の人々が”絶対の幸福”に成れた背景
人それぞれ価値観が違いますので、細かく見れば”絶対の幸福”も細かい感じ方は違ってくると思います。
その一方で、真理とは常に普遍です。山の頂上はひとつしかありません。
人間の心はコロコロ変わりますが、大宇宙の法則は常に変わることがありません。
普遍だからこそ、親鸞聖人は多くの不幸な人々を”絶対の幸福”に導くことが出来ました。
そして、その教えは現在も完全なカタチで”浄土真宗”として受け継がれ、生きています。
実は、、現代人は当時(平安~鎌倉時代)の人たちと比べて、ある意味大きなハンデを背負っています。
それは”豊かさ”というハンデです。
「衣食住が普通にある」「娯楽が多岐に渡る」「死を意識する事がほとんど無い」
こうした”豊かさ”に浸ってきた現代人は、当時の極貧の人々に比べて圧倒的に”心の純粋性”が失われています。
親鸞聖人が生きた平安時代から鎌倉時代の一般の人々は、その日生きるのが精一杯のとても貧しい暮らしをしていたことが伝えられています。
現代のように、一日中楽しめるような娯楽なんて当然ありませんので、”何かにすがる”ことでしか心が救われる手段がありませんでした。
それゆえに、当時の人々は”心の純粋性”が高く、当たり前のように神様や精霊様の存在を信じている人が多かったのです。
木々や草花、岩、それこそ土間や厠(トイレ)など、あらゆる所に神様、精霊様の存在を感じて生活していたと言われています。
この自然信仰は、古代の日本人にとっては当たり前のことだったようです。
一定数、無神論者も居たとは思いますが、現代人の「神様を信じる人(少数派)」「信じない人(多数派)」の比率をそのままひっくり返したら、もしかしたらピッタリ当てはまるかも知れませんね。
何が言いたいかというと、親鸞聖人の導きで”絶対の幸福”に成れた人々の多くは、”神様を信じていた”ということが言えるのです。
平安時代まで仏教は貴族階級だけのものでしたが、親鸞聖人の登場によって貧しい庶民にも広く伝わりました。
神様にすがることで何とか生きていた人々が、親鸞聖人が教える”本当の人生の豊かさ(説法)”に触れることが出来たため、多くの人が”絶対の幸福”に至ることが出来たのだろうと感じます。
それゆえ、庶民の心に与えた影響力が大きく、浄土真宗が現代においても最も信者が多い理由なのでしょう。
”絶対の幸福”に向かうには”純粋性”が大切
ここまでの話で、かなり”絶対の幸福”の敷居を上げてしまったと思いますが、ご安心ください。
現代人特有の、衣食住・娯楽・安全が約束された上での”相対の幸福”も、”絶対の幸福”へ向かうために重要な役割を果たします。
現代人は、現代人ならではの”絶対の幸福”へ向かう道があります。
”純粋性が薄い”という点ではハンデですが、”豊かさにより生きやすい”というアドバンテージは生かすべきなのです。
生まれた環境が過酷、という方もいらっしゃいますが、生きることが出来る最低限の衣食住があるだけでも”豊かさ”なのです。
人類史上で考えても、これほど”ありがたい”ことは無いのです。
すでに”豊かさ”に浸りきった現代人においては、ある程度の”相対の幸福”による安心感があった方が良いと感じます。
無いに等しい状態でも、前回のブログで説明した通り、執着しがちな”相対の幸福”が少ないこと自体をアドバンテージと考えて欲しいと思います。
「”勝ち組、負け組”の価値観から離れた方が良い」と言っても、一度染みついた価値観はそう簡単には払しょく出来ません。
焦らずじっくり、緩やかに、長い時間をかけて価値観を変えていく必要があるでしょう。
つまり、”相対の幸福”との距離感をうまく取りながら、純粋性を取り戻していくことで自然と”絶対の幸福”に向かいます。
僕たちは、平安時代の人々と同じように”純粋性”を元々備えていますが、”豊かさ”により蓋をされ、封印されているだけなのです。
この封印の蓋を開ける作業、、それが過去のブログ「神様っているの?(前編)」で書いた、”神様(あの世)を信じる”という原点回帰だと感じます。
僕たちの原点は、”生まれたこの世”ではなく、”あの世”にあります。
人間の主体は肉体ではなく、霊体(魂)なのです。
とはいえ、この”神様を信じる”という価値観の構築、、これは浄土真宗を学ぶことよりも圧倒的に激ムズでしょう笑😅
現代人は、「”見えないものを信じる”というのはオカルトだ」という価値観にあまりにも支配されてきました。
”純粋性”は大切、されど己の中の悪はあっていい
前項まで読まれて、「清く純粋な人間になる、、自分には無理だな」と思われた方も少なくないのではないかなぁ、と思います。
これについても、親鸞聖人が見事に「それでも大丈夫だよ」と言ってくれています😄
前述で平安時代頃の人々は”純粋性”が高いと書きましたが、その一方で個々人が持つ悪意は現代人以上に強かっただろうと思います。
多くの庶民が、貴族階級に奴隷のごとく抑圧され、衣食住もままならない中で、教育さえ受けることが出来なかったのです。
極論すると、ただ”死なないために生きていた”だけなのです。
そのため、命を軽視するような非人道的な悪習慣や、殺人、村八分などが蔓延していました。
現代人からすると”地獄”のように見えたことでしょう。
その荒み切った人々の心を説法で救ったのが親鸞聖人でした。
そして、その親鸞聖人でさえ、心根が完全に真っ白な善人・聖人ではありませんでした。
親鸞聖人は己の性欲が強く、高野山でいくら修行をしても克服が出来ないことから、「私は凡人だ」と苦悩しました。
しかし、「凡人であるが故に、庶民に寄り添うことが出来る」と考えて、救われない庶民の為の希望となることを誓ったのです。
その親鸞聖人が遺した重要な教えが「悪人正機(あくにんしょうき)」です。
「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味になります。
簡単に言えば「人々は凡夫であるのだから、煩悩に塗れた悪人であるのは当たり前。しかし、だからこそ仏様は改心する者を救ってくれるのだよ」ということですね。
つまり、「己の中の悪(煩悩)を認め、それを戒める気持ちで生きれば救われるんだよ」という教えになります。
この教えを説いた親鸞聖人は、殺人者を見れば「己の中の悪も殺人を犯す芽はある」と真剣に共感して、殺人者にすら慈悲の心を向けました。
この「悪人正機」が示すのは、「人は死ぬまで己の中の悪を完全に払しょくすることは出来ない」という普遍の真理なのです。
一見すると「都合の良い考え方」と捉える人も居るかも知れませんが、人類史上最高の叡智と言われる、中国春秋時代における道教の祖である老子が説いた、”陰陽太極図”でも表されています。
己の中の善と悪を合わせ呑めば”絶対の幸福”に近づける

”陰陽太極図”は、みなさんご存じの図かと思います。
この図の意味は、”万物は陰陽によって成り立つ”というもので、「光があるところに、必ず影が出来る」という真理を表したものです。
人の心も同じで、どんなに非の打ち所がない善人であっても、同時に必ず悪人としての本性があります。
逆説的に言えば、悪人的な本性が無ければ、本当の意味での善人にはなり得ないのです。
つまり、この世の大宇宙の真理は「清濁併せ吞む」ものだということです。
どんなに非人道的な悪人にも、僅かであっても善の部分が存在します。
図を観ていただくと、白い勾玉の中に小さな黒い点、黒い勾玉の中にも小さな白い点があると思います。
これが、「白(善)の中の小さな黒(悪)」、「黒(悪)の中の小さな白(善)」を表しています。
この法則が万物に当てはまると老子は見抜いたのです。
ここまで、ちょっと小難しい話に感じたらごめんなさい😅
でも、あなたは「己の中の悪(煩悩)を排除しなければならない!」と躍起になる必要は無いので安心してください。
おさらいとして、生きる上で重要なことを下記に挙げて締めたいと思います。
- 自分の中の”悪”を一度認めてしまって観察し、良心の範囲に留め続ける覚悟を持つこと
- 良心が許す範囲において”欲(相対の幸福)”を追求すること
- 両親(良心=内在神)を始めとした、多くの人々の”お蔭様”で生きていることに日々感謝すること
- 神様・精霊様(森羅万象)、ご先祖様が居るからこそ、自分が存在出来ていることに日々感謝をすること
これらが出来た時、あなたは”絶対の幸福”を感じ始めているだろうと思います。
なぜ、”生かして貰っている”のかという詳細については、ブログ「神様っているの?(前編)」をお読みいただければ嬉しいです😌
あなたの心に、常に太陽があることを祈りつつ。。
お読みいただき、ありがとうございます😊