江島神社
みなさん、こんにちは!
 
タカミチです。
 
noteからのお引越し記事第二弾ですが、やはり厳しめの口調だったので柔らかく修正・加筆しています笑
 
現時点の僕なりの惟神の視点から感じることを書いていますので、何か感じ入るところがあれば嬉しいです😆
 
 

あなたは惟神(かんながら)になりたいと思いますか?

 
惟神とは簡単にいえば、神意をこの現実界で体現する者だと言えます。
 
地球をより良く運営するための役員みたいなものですね。
 
ではなぜ、神意を代行する必要があるのでしょうか。
 
役員になるメリットは何なのでしょうか。
 
それは魂の目的を考えればわかることです。
 
僕たち全ての魂は、なにもこの現実界に旅行目的で生まれ来ているわけではありません。
 
この現実界に生まれ出るということは、ドリームジャンボ1等に連続当選するよりもはるかに難しい関門です。
 
想念の次元(霊界)で神様に認められ、選ばれた魂だけが奇跡的にこの物質世界に生まれ出ることを許されます。
 
その目的は、この現実界しか魂を成長させることが出来ないためです。
 
魂が成長すれば、再びあの世(霊界)に戻った時、その成長具合に応じてより高次の次元に安住することが出来るようになります。
 
魂はより高い次元に行けば行くほど、より強力な歓喜を発し、宇宙が弥栄えていくことに大きく貢献できます。
 
つまり、宇宙運営の役員としてその魂はより影響力を持つし、極めて神徳高い魂は神上がりすることもあります。
 
これを神様は人間に期待して、内在神が右胸に同伴する形でこの現実界に送り込むのだと考えます。
 
より良い宇宙運営の役員を育てるために。
 
と、僕は感得しているわけですが、概ね方向性は間違っていないと思います。
 
ちなみに、「日月神示」の<日の出の巻き・第二十一帖>には、惟神について以下のように記されています。
 
神かがりと申しても七つあるのであるぞ。
その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ。
ガカり、かみかかり、か三かかりぞ。(カミ)ガカリぞ。
(かみ)かかり、か三かかり、かみかかりざぞ。
神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリと申してあろが。
そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ。
神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ。
これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ。
神と人と融け合った真事の姿ぞ。
今の臣民のいふ惟神では無いぞ。
此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。
悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ。気つけて呉れよ。
これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ。
早う神カカリになる様 掃除して呉れよ。
神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。
一二三唱へよ。祓えのれよ。神称へよ。人称へよ。
神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ。
まつはり呉れよ。あななひ(助け合って)呉れよ。
引用元:https://fieasia.net/archives/9659#i-22
 
 
日月の神様(国常立太神様=地球霊)は、神懸かり=惟神だと説いています。
 
一般的な認識にあるような、神と一体化して特別な力を開眼するわけでは無いこともしっかりと説いています。
 
”自分を特別な存在だと思いたい”という我欲を満たすものでは決してないということですね。
 
普通の人のまま、普通に生きる中で、神意を体現する者が”惟神”だということです。
 
山やお寺に籠って修行する必要はありません。
 
なぜなら、すでに全ての人間が”人生”という修行中なのですから。
 
雑多な人間が生き、生活や対人関係の困難がある人生が最高の修行の場です。
 
話を戻して、惟神になれれば新米役員としてスタートできるということですね。
 
惟神にも段階があるということです。
 
瞬間的には、誰もが惟神の状態になっている時もあるでしょう。
 
そう考えると、楽しい話に感じませんか?
 
惟神になる方法、、それは非常に簡単であり、非常に難しいと言えます。
 
あなたの良心に沿って生きれば、自然と惟神になっていきます。
 
あなたの胸の中心から右に3cmのところに、内在神は良心として静まっています。
 
そして、24時間365日休まずあなたを見守り続け、行い・考えの全てを寸分違わず記録し続け、評価し続けています。
 
つまり、良心(内在神)に恥じない生き方をすればするほど、内在神が発露してくるため、惟神という「内在神による自動操縦モード」になっていきます。
 
勘違いしてはいけないのは、惟神になっても神通力が手に入るわけでも、特別な存在になれるわけでもないということです。
 
ほとんどの人が、それまでの自分の能力のまま、平凡に粛々と生きることになると思います。
 
ごく一部、特殊な神縁ある魂のみ霊格や神通力を開眼することもあるが、そこを期待してはいけないのです。
 
ただ、内在神による大変な試練を前向きに乗り越えていくうちに、惟神特有の深い気づきが自然と発生するようになります。
 
それは”真理に気づく”、”悟る”と言えるものだと感じます。
 
惟神になると幸せなことだけが起こるようになるわけではありません。
 
むしろ、不幸とも呼ぶべき試練が増えるかもしれません。
 
不幸を体験させることで、それを乗り越えさせた時により魂が成長するため、神様は「辛いだろうけど頑張ってね!」という具合に試練を与えてくれます笑
 
人間は、幸福な出来事からはあまり学びませんが、不幸による苦しみからは大きな学びを得られるという、やっかいなシステムがあります。
 
その内在神が与えた不幸には、めぐり(因果)を昇華(消化)させるためのサービスもあるでしょう。
 
神様は、プレゼントと称して不幸を贈って戴けるわけですね(ありがた迷惑ですか?笑)
 
だから、惟神の深度が深まるほど、世俗的な幸福からは離れてしまう可能性もあります。
 
これはその人の因果にもよるため、一概には言えないと感じます。
 
悪因縁を早めに昇華してしまって、早めに大ハッピーになる人も居ると思います笑
 
惟神になっていく最大の恩恵は、不幸と呼べる出来事にも動じることなく向き合えるようになり、絶対的な安心感の中で人生を送ることが出来るようになることでしょう。
 
ぜひ、あなたも少しずつでも良心(内在神)に沿った生き方を意識し、内在神と同行二人の旅を楽しんで欲しいと思います!
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
お読みいただき、ありがとうございます😊
 
 

   

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