悟りを開く
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
「悟りを開く」ということについて、人生で一度は耳にしたり、興味を持つ事があると思います。
 
 
しかし、「悟りを開く」と言っても漠然とし過ぎて、どういうことなのか、何をすれば悟ることが出来るのか、など分からないと思います。
 
 
そこで、不肖ながら求道者の一人として、「悟りを開く」ということについて、観念的な事だけでなく、実践的なことも含めて、日々探求の中で気づいたことをご紹介していきます。
 
 
 
この記事で分かること
人生をより豊かに生きるための大切な気づきや、エッセンスを、「人生哲学としての悟り」を通して学ぶことが出来ます。
 
また、「悟りを開く」ということの目的や、実際に悟りを開いた人の生き方について、宗教哲学・霊的哲学の両側面で知ることが出来ます。
 
本気で悟りを開き聖人になりたい人は、何かのヒントになるでしょう笑
 

悟りとは?

 

悟りとは、自我を超越し”真我”に覚醒した状態

 
ちょっと堅苦しいですが、一般的な悟りの定義から入ってみましょう。 
 
 
悟りとは、Wikipediaによれば「迷いの世界を超え、真理を体得すること」とあります。
 
 
仏教では、解脱や涅槃と同じ意味で用いられますが、悟りを開いたお釈迦様が説いた「八正道」を体得する事で、全てへの執着から離れて悟りを開くことに繋がるとされています。
 
 
お釈迦様が誕生してから2600年あまりの間、仏教は様々な宗派に分かれ、悟りを開くという定義も多種多様あるようですね。
 
 
共通している点として、悟りを開くと目覚めた者として”覚者”、”覚醒者”と呼ばれますが、これは「自我を超越した意識状態」を指し、それはつまり「真我に目覚めた者」とされています。
 
 
この、一般的にはまったく馴染みのない”真我”とは何なのでしょうか?
 
 

真我とは、「本当の自分」、「自分の神性(内在神・良心)」

 
真我について理解するには霊的な側面を知る必要があります。 
 
 
Wikipediaなど一般的な視点での説明では、霊的視点が欠けているので、どうしても唯物的・即物的な面が先行して、真我について本当に理解することを阻害していると感じます。
 
 
人生は色々な事が起きて大変ですし、喜怒哀楽に翻弄されますし、「何も起こってはいない」とは思えないですよね。
 
 
これは唯物的・即物的観点です。目の前の事象しか観えていない、自我の観点です。
 
 
この「何も起こってはいない」について、出来る限りさらに分かりやすく解説してみたいと思います。
 
 
「僕・私」と認識している自我からすれば、”色々と起きている”と感じるのは事実です。たしかに実際に、物理現象として起きています。
 
 
しかし、霊的な真実に気づき始めた時点で、この認識がガラリと変わる始めることになります。
 
 
この霊的な真実とは、「日月神示」的な表現を用いて表すなら、「全宇宙が弥栄える(発展する)ための魂の成長の機会として、不滅である魂は現実界に生物として輪廻転生を繰り返す」ということだと感じます。
 
 
生物が現実界で真我(内在神)に目覚めることは、それは生きる神様になる事を意味しますし、死後はそれ以降の人類の共有意識に溶け込むため、たった一人が真我に目覚めるだけでも、種に対して飛躍的な進化を促すことになります。
 
 
人類における覚醒者は、現在までに19人と言われいますが、個人が人類全体の進化に貢献できること、それが「悟りを開き、覚醒する」ということです。
 
 
これを宗教的概念や話題として盛り上がる心霊現象としてぼんやり認識するのではなく、完璧な事実として認識が変わった瞬間から、「僕・私という存在は錯覚である」と気づき始めると感じます。
 
 
つまり、真我が本来の自分(神性の自分)ですので、自我(僕・私という存在)が錯覚なのであれば、真我の視点では「何も起きてはいない」と言えるのです。
 
 
「この現世というのは、魂の修行のための舞台である」という認識が進むと、”自我とは、自分という役を演じる役者”なのだと理解が進みます。
 
 
インドの宗教哲学では、真我を”アートマン”と呼ぶようですが、「自我を観察して現実界を彩る芸術家・演出家・総監督」と考えるなら、確かにアートマンだと思います。(実際の語源は知りません)
 
 
どんな大変なことも、「自我だから体験できる、この世限りのありがたい体験」だと真から認識できるようになった時に、真我に目覚めるのかも知れませんね。
 
 
そのキーワードは、「ありがたい」です。
 
 
すべてに対する感謝が、真我に目覚める重要なきっかけに成るだろうと感じます。
 
 
神様、両親(良心・両神)を始めとしたご先祖様方をはじめ、生かしていただいている森羅万象に屈託のない感謝が出来るようになった時、あなたの真我は目覚めるかも知れません。
 
 
真我に目覚めるとは、大自然と完全な調和をすることだと感じています。
 
 
美しい大自然、森羅万象と同一の存在であるなんて、感謝しかありません。
 
 

自我として生きる意味と、真我に覚醒する意味や目的

 

真我とは究極的に自由な存在になるということ

 
前章にあるように「真我の観点では、人生とは何も起こってはいない」というと、「自我として生きる人生に何の意味があるのか?」と考えてしまいますね。
 
 
「真我の観点では、人生とは何も起こってはいない」と言っても、真我は喜怒哀楽の感情も無い、冷徹で退屈な存在というわけでは決してないでしょう。
 
 
観世音菩薩のように、ありとあらゆる喜怒哀楽を受け入れてしまえるため、「何も起こってはいない」と言えるのかも知れません。
 
 
そして、真我が感じる喜怒哀楽とは、自我におけるそれと比較すると、次元や観点がまったく変わってくるだろうと感じます。
 
 
  • 喜びを感じる瞬間では、自我が感じるあらゆる肉体的快楽を凌駕するでしょう。
  • 怒りを感じる瞬間では、不動明王のような憤怒を以て、大日如来(天照太御神)のような慈悲で包み込むでしょう。
  • 哀しいと感じる瞬間では、その悲しみの対象を自身のこと以上に深く同情し、慈愛の目を向けるでしょう。
  • 楽しいと感じる瞬間では、自我で体験できる自由とは比較にならない解放感があることでしょう。
 
 
真我(内在神)に目覚めるとは、神様を現実界で体現することですので、自我の僕が想像できるのはこれが限界です。
 
 
眼を閉じて大自然を頭に思い描き、「自分は太陽である、炎である、風である、水である、土である、、」と森羅万象に自分を重ねて想像していき、「それら在るがままの自由な存在である」と成り切ってみると、もしかしたらちょっと近いものがあるかも知れません。
 
 
そんな究極の在るがままの自由な存在にとっては、自我の体験する苦なんて無いに等しいということですね。
 
 
だから、真我にとって自我の苦など「何も起こってはいない」ということだと感じます。
 
 

自我での修行を経て真我に至る

 
誰もが、お釈迦さまですら、自我での苦を乗り越えて、度重なる悟りを経て徐々に真理に気づいていき、心を磨き上げる中で真我を覚醒するに至ります。
 
 
なので、例え最終的な悟りを開いて真我に目覚めることが出来なくても、その悟りまでの過程を歩むだけで人生に多大な恩恵があることは言うまでもありません。
 
 
人生哲学として悟りを目指し、自我としての人生をより充実させていけば、今生は楽しく自我(煩悩)を謳歌して、来世あたりでもしかすると真我を覚醒できる縁が発生するかも知れません。
 
 
自我としての煩悩(食欲・性欲・睡眠欲・物欲、その他あらゆる欲望)への執着を完全に断たないと真我には至りませんから、語弊のある言い方をあえてすれば真我を目指すとは「楽しくないし、苦しい」です。
 
 
そこまでして真我を目指す必要を感じなければ、良心の許す範囲で節度を持ちながら、自我としてそこそこ煩悩を楽しめばいいわけですね。
 
 
では、現在までに真我(悟り)を目指す修行者がなぜたくさん居たのかという、その目的と仕組みを考えてみましょう。
 
 

良心(内在神・真我)が真我を目指すように仕向ける

 
結論から言えば、ヒトの人生の仕組みとして「良心(内在神・真我)が真我に向かうように仕向ける」と言えると感じます。
 
 
「真我に目覚めるまで、魂は何度でも”苦を体験させるため”に現実界に生まれ直さなければならない」、それが輪廻転生という大宇宙のシステムなのでしょう。
 
 
お釈迦さまは、この輪廻転生から外れて涅槃(大安心の境地)に入るための方法として、真我に目覚めることを説いたわけですね。
 
 
真我を目指すにあたって、キーワードとなるのが、”良心の呵責”です。
 
 
良心に反することをしようとすると、「内在神・真我(良心)」が”良心の呵責”というアラートを発します。
 
 
”良心の呵責”アラートを守ると、良心(内在神)がポワン、とちょっと大きく育ちます。
 
 
どんな小さなアラートにも従って良心を大きくし、感謝と思いやりを発揮して真我の周囲にある自我の層を削り取っていけた人が、真我に目覚めるのだと感じます。
 
 
この”良心の呵責”は、その人が度重なる輪廻転生で築いてきた因果によって、その段階は大きく異なります。
 
 
  • 過去生までで善い生き方をしてきた人は、今生ではそれだけ真我に向かいやすい清い心が育まれる環境に生まれるでしょう。
  • 過去生までで悪い生き方をしてきた人は、今生では自我が厚く”良心の呵責”を感じにくくなるような環境に生まれるでしょう。
 
 
ここで何が言いたいのかというと、たとえ「悪い因果の中に生まれたとしても、その仕組みに気づきさえすればよい」ということです。
 
 
「良くない人間関係の中にいる」、「人間的に荒んでしまった」、「悪い事ばかり起きる」、など、悪い因果関係の中で生きていると感じるなら、「ここをゼロ(出発点)として、前向きに良心に沿って生きて行こう!」と決意し、行動を始めるだけで、悪い因果を断ち切ることに繋がると感じます。
 
 
本来返すべきだった因果の借金が、前向きな心に入れ替えたことで、神様からお目こぼしがいただけるようです笑
 
 
僕はこの数年の間、24時間365日において自分に起こる現象を観察し続けてきて、その因果の流れや、それにより喚起される感情と直感など、論理的に分析してきましたが、”これは間違いなくある”と断言できます。
 
 

霊的なことを完全な事実だと認識するためのコツ

 

霊的なコトを信じられるようにならないと大損する時代

人生哲学としての悟りに霊的感覚の理解は必要ありませんが、実際に真我に目覚めるという悟り本来の意味を知るためには、霊的なことを完全に事実として受け入れる必要がありますので、この章では「霊的なコトを受け入れるコツ」について、僕が体験的に感じることを書いてみたいと思います。
 
 
すでに霊能力のある特別な方の目線ではなく、凡人である僕の目線だからこそ、多くの人に共感を得やすいだろうと思います。そもそも、ざっくり言えば霊能力に特別も凡人も関係ありません。
 
 
誰しもが、すでに特別な霊能力を秘めていますし、眠っているだけなのです。しかし、目覚めさせる必要もありませんし、もし”正しい霊能力”が目覚めたら、それはそれで、この現実界に対して大きな責任を背負うことでもあります。
 
 
その重荷を背負うことが出来る人、そうした宿命にある魂にだけ、神様から許可が降りて”正しい霊能力”を開眼するでしょう。
 
 
ちなみに、自称霊能力者は99%が”正しくない霊能力者”です。商売した時点でアウトです。
 
 
これからの時代を生きていく上では、これまでの時代のように”ぼんやり”とした霊的認識をしているのは非常に勿体ないです。そう、”勿体ない”のです!
 
 
この時代ほど、それまで霊的なコトに免疫の無かった(僕のような)凡人が、観えない存在(神様・ご先祖様など)からの干渉を感じやすい時代はありません。
 
 
正しく感謝をして生きていれば、それらの存在とコミュニケーションを取っているような、まるで導かれるような感覚になるかも知れません。
 
 
”スサノオの大祓”という、弥勒の世への地ならしが始まった今だからこそ、神様方は”観えない存在へ感謝が出来る人”が増えることを望まれています。
 
”ネット環境が整った今”だからこそ、地球の裏側に居る人にもリアルタイムに伝達する術が整ったので、”解禁”が始まったのだと感じます。人類いっせいに”ふるいにかける”為に。
 
 
正しい情報を取捨選択できる人かどうか、人類は試されているということです。これもスサノオの大祓の一環かも知れません。
 
 
だから、霊的なコトへ認識を深めておかないと、多大な損をすると断言できますし、今はある意味でボーナス期間、売り手市場だと言えます笑(神様に失礼!)。
 
 
損得で考えるのは好きではありませんが、あえて現代的にわかりやすく即物的な表現をしてみました。
 
 
今の時代に生きられるということを勝ち得た僕たち魂は、信じられないほど超ラッキーですよ!
 
 

霊的なコトを信じられる人、信じられない人の違い

 
 世界の大部分の人々が霊的なコト、霊界があるということを認識できない事には、れっきとした理由があると感じます。
 
 
認識できないのが普通であり、それが当たり前”なのです。
 
 
なぜなら、大宇宙の法則により、「霊界の存在は原則として明かさない」というルールがあるように感じます。
 
 
霊界の住人が、現実界の住人に干渉して霊界の真実を暴露すると神罰があると言われているくらいです。(現実界の住人が気づいて明かすのはOKです。むしろ、それを試されています)
 
 
霊的なコトを信じられる人というのは、大まかに2パターンあると感じます。
 
 
ひとつは、霊感が強く日常的に幽霊を観たり、体験をしている人。もうひとつは、霊感はなく霊的な存在は知覚出来ないが、”魂の神縁により感覚的に分かる人”です。あるいは、悪知恵が働くあまり気づく悪人です。
 
 
まず、前者の”霊感がある”というのは、喜ばしくない事の方が多いようです。
 
 
神縁由来の特殊な霊能力を持っているごく少数の人を除いて、幽霊を観るということのほとんどの場合は、低級霊の荒い波動に周波数が合ってしまっているということなので、憑依を受けやすかったり、霊体・肉体が弱い人に多いと言われています。
 
 
幽霊が観えないことが健全ですので、もし観えてしまったら健康管理に一層気をつけましょう。
 
 
この現実界においては、霊感は無い方が良いですし、それが本来のあるべき姿だと感じます。霊感があって凄いということは無く、霊感があることが特別な存在だと錯覚するようでは幼いと感じます。
 
 
本当に凄い人というのは、霊的な存在をまったく知覚できないのに、心の底から神様・ご先祖様をはじめとした、観えない存在へ感謝と畏敬の念を持てる人です。
 
 
こうした人の方が、現実界に観える形で干渉は出来なくても、実際には高い霊力があるでしょう。
 
 
 
僕たちが生きているこの世界は、「現実界と霊界の2つの世界によって成り立っているのは、揺るぎない事実である」、という事を心から信じ、理解することは、ある意味で人生で最も重要で基本的なことだと感じます。
 
 
いえ、霊的なコトを信じきれなくても、神様やご先祖様に感謝を忘れずに持つ事が出来るなら、それだけでも十分だと言えます。
 
 
霊的なコトを信じる事が出来た方が、より色々と重要な事に気づけますので、ベターという感じでしょうか。
 
 
前置きが長くなりましたが、霊的なコトを信じられるようになっていくコツのようなものがあるとすれば、それは「意識し続けること」です。
 
 
人は、ある対象へ意識を向け続けることで、その対象を習得するためのあらゆる縁が発生し続けると感じます。その力が、大宇宙の観察者たる人間には備わっていると感じます。
 
 
霊的なコトへ意識を向け続ける、、つまり、毎日神様・ご先祖様に感謝をしたり、正しい霊的知識を学んだりするうちに、第六感的に霊的なことへ”リアリティ”を感じ取れるようになって行くということです。
 
 
その他の、ネット上の99%以上の霊的情報は”適当”な場合が多いので、やめた方がいいとお伝えしておきます。本質からかけ離れた単なるスピリチュアル好きになってしまいかねません。。
 
 
ちなみに、僕は他人はもとより、家族にすら霊的なことを話すことはありません。つまり、傍からはただのお節介おじさんです笑。
 
 
この章の締めとして少し真面目なことを書かせていただくと、僕は、スサノオの神縁を自覚するひとりとして”必要なコト”を伝えるため、多くの人が人生を少しでも生きやすくなるように、この「たまむすび」を書いています。
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日となりますように😊




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