20230408
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
 
 
タカミチです。
 
 
お釈迦さまの教えの中には、性欲との向き合い方について書かれてある項目もたくさんあります。
 
 
人間が最も御しがたい感情・欲望が性欲ですね。
 
 
お釈迦さまが菩提樹で瞑想中に、欲望の化身・悪魔であるマーラが悟りを開くことを邪魔しようと妖艶な美女3人を送り込みますが、お釈迦さまはそれにも心を動かされることはありませんでした。
 
 
このマーラは、誰の心の中にも潜んでいる悪魔で、心の隙間が出来るたびに悪い方向に進むようにとそそのかしてきます。
 
 
心の中でいつも仏(良心=内在神)と悪魔(マーラ)が戦っており、仏が全ての闘いに勝利した時に悟りを開き、覚醒するのでしょう。
 
 
「悟りを開く」ということについて、過去記事「悟りを開いて安心の境地を目指したい人に読んで欲しい記事【十牛図: 入鄽垂手】」で触れましたが、今読み返すとかなりざっくばらんな事を書いていたと感じます笑
 
 
「悟りを開く」、「覚醒する」と何が起きるのか、「その目的は何なのか?」ということについて、後日もう少し深堀りして書いてみたいと思います。
 
 
今回は、原始仏典『スッタニパータ 第一章第三節 犀(さい)の角』から、愛情や友情との付き合い方について解説してみたいと思います。
 
 
 

スッタニパータ  第一章第三節 犀(さい)の角 36番

 
「交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」
 
解釈:他人と性交をすると、我欲からの愛情が生じる。この我良しな愛情からさらに苦しみが起こってくる。この性欲に執着した愛情が災いを生じさせることをよく観察して、サイの気高い一本角のように、ただ独りで自分の道を歩む心を持ちなさい。
 
 
性欲というのは、人間の持つ欲望の中でも最も強い執着を生む厄介極まりないものです。
 
 
人類は、究極的には性欲の対象と性交をするために、あらゆる文化を発展させてきた側面があると言えます。
 
 
人類の始祖、アダムとイヴが知恵の果実を食べて初めて性を認識したところから、その性を満足させるために知恵を絞り、子孫が繫栄し文明が発展してきたのです。
 
 
あえて言い切ってしまいましたが、もちろん性とは関係なく発展してきた文化も数多くあります笑
 
 
ただ、それほど性欲とは、人類が最も制御しがたい我欲を象徴するものだということです。
 
 
お釈迦さまは、この性欲に基づいて行われる性交によって生じる、”愛情”を深く観察しなさいと教えています。
 
 
その愛情が特定の個人、、つまり最愛のパートナーに向けられた”真の愛情”であればまったく問題はない一方で
 
 
それでもやはり前項35番のように、最愛のパートナーへも迷惑をかけてはいけないのですから、歪んだ性嗜好を向けたり、性の不一致で喧嘩をするのは問題があります。
 
 
それは、”歪んだ愛情”により性欲に執着していることになります。
 
 
お釈迦さまは、こうしたカムフラージュされた”ニセモノの愛情”にも気を付けなさい、と教えているわけですね!
 
 
そして、不特定多数の人と乱れた性的な関係を結ぶことは、完全に我良しな欲望による性欲への執着ですので論外です。
 
 
たとえそれぞれの人に対して愛情を抱いていると、「不倫は文化!」などと豪語したところで、それは子供の言い訳にも及ばない稚拙な発想です。(特定の個人を攻撃しているわけではありません笑)
 
 
お釈迦さまは、「性欲がすべての災いを生じさせる元凶」とも教えています。
 
 
逆説的に言えば、性欲さえしっかりとコントロールできるように成れば、その他のあらゆる問題にも取り組みやすくなるということです。
 
 
お釈迦さまは、性欲のコントロール方法についても「スッタニパータ 蛇の章」で教えていますので、「犀の角」が終わり次第改めて取り上げてみたいと思います。
 
 
 

スッタニパータ  第一章第三節 犀(さい)の角 37番

 
「朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」
 
解釈:親友のために過度に感情を動かされたり、友情を守るために自分を良く見せようと心を惑わされると、それは本当の自分を見失い、自我への執着を招くことにつながります。親しい関係にはこうした危険性が常に付きまとうことをよく考慮して、サイの気高い一本角のように、ただ独りで自分の道を歩む心を持ちなさい。
 
 
友達関係とは人生を楽しく豊かにする一方で、その関係を保つために本当の自分を押し殺す必要があることも往々にしてあります。
 
 
お釈迦さまは、「友情も大切だが、そこに執着をし過ぎると本当の自分を見失う危険性がある」と教えているわけですね!
 
 
現代は交友関係を、まるで自分を華やかに見せるためのアクセサリーのように捉えている人が増えた印象があります。
 
 
友情の捉え方を一歩間違えると、自我の増長を招いて本来の自分からはどんどん遠ざかり、トラブルが絶えない人生になっていくでしょう。
 
 
身に着けたアクセサリーを失わないようにいつも腐心し、いつもどこか落ち着かないような、満たされないような感覚が付きまといます。
 
 
こうした泥沼にハマってしまうと、飢餓感を満たすために欲望に歯止めが利かなくなっていき、自滅の道をたどることにもなりかねません。
 
 
36番の不特定多数との性的関係などは、友情関係よりもさらに泥沼化、修羅場を体験することに繋がります。
 
 
37番は親しい関係にはこうした危険性が常に付きまとっているということを示した教えですね。
 
 
友達と遊んだり、飲み会をしたりするのはもちろん楽しいことですが、”そこだけ”に友情関係を求めて普段のストレス発散をする、という考えから一度距離を置いて考えてみると、人生観が大きく前進するかも知れませんね。
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日でありますように😄

↓ほぼ日配信の通知を受け取るにはツイッター等のフォローをご利用ください↓