地獄から這い上がり助かったトルフィンの行動を参考にしながら、
みなさん、こんにちは!
 
 
タカミチです。
 
 
芥川龍之介の作品『蜘蛛の糸』はご存知でしょうか?
 
 
僕は幼稚園時代に、アニメ『日本昔ばなし』で観ましたが、当時は結構衝撃的な話で、大人になってからも当時の映像が断片的に蘇るほどでした。
 
 
『日本昔ばなし』の中でも最も印象に残っている話です。(軽くトラウマでした笑)
 
 
お釈迦様にチャンスを与えられながらも、悪人・カンダタが振る舞った我良しな行いは、現代人の僕たちが大いに学ぶべき教訓があると感じます。
 
 
そして、アニメ『ヴィンランド・サガ』にも『蜘蛛の糸』を思わせる描写があるのです。
 
 
そこで今回は、地獄から這い上がり助かったトルフィンの行動を参考にしながら、「お釈迦様(神様)が100点をあげていたであろうカンダタの行動」について考えてみましょう。
 
 
 

『蜘蛛の糸』の簡単なあらすじ

 
 
ある日、お釈迦様は天国にある蓮池の縁を気ままにお散歩していました。
 
 
何気なく池の底を眺めてみると、なんとそこには血の池地獄で罪人たちがうごめいているではありませんか。
 
 
お釈迦様は、その罪人たちの中でカンダタという男の姿がふと目に留まりました。
 
 
カンダタは、我欲のために人を殺したり、盗みを働いて家に火をつけたりする大泥棒でしたが、生涯でひとつだけ善行を働いた事がありました。
 
 
ある時、カンダタが深い林の中を歩いていると、小さな蜘蛛が目の前を這っていくのが目に映りました。
 
 
カンダタはお構いなしに踏み潰して殺そうとしましたが、ふと考えが脳裏に浮かんで踏み止まります。
 
 
「ちょっとまて、コイツは小さいながらも俺と同じ命のある生き物だ。それをむやみやたらに殺すのは可哀想ってもんだ」
 
 
人を簡単に殺してしまう悪党のカンダタは、この時ばかりは命の重さを尊重したのです。
 
 
そのことを思い出したお釈迦さまは、深い慈悲心からカンダタに救いのチャンスをやろうと、蓮の葉の上にいた美しい蜘蛛が垂らしていた糸を手に取り、池の底に垂らしました。
 
 
血の池地獄でもがき苦しんでいたカンダタは、空から降ってきた銀色に輝く蜘蛛の糸を見つけました。
 
 
「これにつかまって上に上がれば、地獄から抜け出せるに違いない!」と思ったカンダタは、亡者の群れから這い出て、蜘蛛の糸を掴み這い上がって行きました。
 
 
中程まで登ってきたカンダタは、腕が疲れて登ことが出来なくなり、休憩のために腕を休めて下を見ました。
 
 
するとなんと、亡者たちも蜘蛛の糸を伝って這い上がってきているではありませんか!
 
 
ひとりでさえ切れてしまいそうな、頼りない細さの糸なのに、これでは切れて落ちてしまうと思ってカンダタは焦り、亡者たちに向かって大声で言いました。
 
 
「おいっ、お前たち降りろ!これは俺の糸だ!そんなに大勢登ってきたら切れてしまうだろうが!」
 
 
すると、蜘蛛の糸はカンダタの手元からあっさり切れてしまい、カンダタは亡者たちと一緒に真っ逆さまに血の池地獄に落ちて行きました。
 
 
その様子を眺めていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をすると、立ち上がってまたぶらぶらと歩き去ってしまいました。
 
 
 

『ヴィンランド・サガ』地獄から這い上がったトルフィン

 
物心ついた頃に、目の前でヴァイキングに父親を殺されたトルフィンは、復讐するために強くなる決意をし、憎き仇と行動を共にしながら戦士としてたくさんの人を殺めます。
 
 
仇敵・アシェラッドが死んで、生きる目的を失ったトルフィンは、自失の中で奴隷として無気力に生きていました。
 
 
奴隷仲間・エイナルとの出会いが、トルフィンに正気と人間性を取り戻させて行きますが、ある時奴隷を嫌う奉公人たちに田畑を荒らされ、喧嘩になった際に思わず殴ってしまい重傷を負わせてしまいます。
 
 
それにショックを受けて、殴られるままになったトルフィンは倒れて気を失い、気がつくと奈落の底に落ち続け、地獄まで意識が落ちていました。
 
 
そこで、トルフィンが見たものは、体が朽ち果ててゾンビのようになったヴァイキングたちが、血の海の中で永遠に戦い続けている姿でした。
 
 
余談ですが、自己利益のために殺人を犯した者は、本当にこのような自分以外は全て敵だという殺し合いの地獄に落ちることになると言われています。
 
 
トルフィンがすんでのところで崖のふちにつかまって、殺し合いの連鎖の血の池地獄に落ちるのを耐えていると、トルフィンがそれまでに殺した人々が恨めしそうにトルフィンめがけて這い上がってきました。
 
 
追い払おうと足をばたつかせていたトルフィンに対して、近くの壊れた柱の上に居た仇敵・アシェラッドが、トルフィンにこう助言をします。
 
 
「そいつらはお前が殺してきた奴らだ。恨み節の1つでも聞いてやるのが筋ってもんじゃねーのか?」
 
 
それを聞いて自分の罪の深さを理解したトルフィンは、這い上がってくる亡者たちに泣きながら謝り続けました。
 
 
アシェラッドはそんなトルフィンに、「そいつらを連れたまま這い上がれ!」と助言します。
 
 
亡者を連れたまま崖を這い上がったトルフィンは、意識が戻り現実に帰ってきます。
 
 
そして、自分が多くの人を殺してきた罪を償うためにも、強く、前向きに生きることを決意しました。
 

カンダタがお釈迦さまに100点を貰えていた行動

 
カンダタはトルフィンがしたように、亡者たちを連れて昇っていれば、”どんな亡者も”お釈迦様のいる極楽に行けていたのでしょうか?
 
 
確かにそうかもしれません。
 
 
『蜘蛛の糸』は児童向け小説のため、細かい合理性は求める必要がないお話だと感じます。
 
 
カンダタが「お前らも登って来いよ!一緒に極楽浄土に行こうぜ!」と言っていれば、お釈迦さまも満面の笑みだったでしょう。
 
 
いえ、自分が登る前に、「これで上に登れるはずだ!さぁ、お前ら先に行ってくれ!」と、他の亡者を優先させていたら、お釈迦さまはカンダタに100点満点をあげて、勢い良く一本釣りのように全員を引き上げていたかも知れませんね笑
 
 
 

『蜘蛛の糸』が意図(糸)したかったのは菩薩心(ぼさつしん)

 
今回、『蜘蛛の糸』のお話を題材にするにあたって仏教系のサイトで調べてみたところ、この物語が伝えたかったことは「菩提心(ぼさつしん)」だったのかも知れません。
 
 
「菩提心」とは、まさにお釈迦さまがそうしたように、善悪貧富こだわらず全ての命とともに生き、救われることを願う心のことです。慈悲心、仏心。
 
 
「一寸の虫にも五分の魂」、、これを気まぐれであっても悪党だったカンダタが見せたことに、お釈迦さまは改心の芽を感じて、地獄を抜け出すチャンスを与えたのでしょう。
 
 
そして、亡者たち全員と協力し合って登ってくる可能性をも期待したのかも知れません。
 
 
だって、自分以外が全員敵だと認識して殺し合っているような究極の地獄において”他人を優先させて協力する”ということは、この世においての”菩薩心”そのものでしょうから。
 
 
ちょっと悪党が改心する、という次元の話では無いと感じます。
 
 
ただ、カンダタがお釈迦さまの意図(糸)を理解して、亡者たちとともに極楽に辿り着く物語だったなら、ここまで教訓のある話にはなっていなかったでしょう。
 
 
僕が40年近くも度々思い出すようなトラウマは植え付けなかったはずです笑
 
 
間違いなく、今回題材として取り上げることはありませんでした。
 
 
この『蜘蛛の糸』の物語が現代人に教えたい教訓は、「いつも神様があなたの目の前に垂らしている善意の意図(糸)に気づきなさい」ということだと感じました。
 
 
誰しもが、心の内では分かっていると感じます。どんな悪人でも。(いや、”どんな”は言い過ぎかな。。)
 
 
良心(内在神)が目の前に垂らしている”今、目の前に必要な善意の意図(糸)は何か”、ということを。
 
 
ただ、自我にこびりついた我良しな想い、、「これが欲しい」「あれをやりたい」「面倒くさい」「異性が気になる」「自分に関係ないことは興味ない」などの想いが優先されてしまうため、見て見ぬふりをしてしまうわけですね。
 
 
現代ほど、自分を優先することを重視する時代は無いでしょう。
 
 
我良しの時代だからこそ、多くの善意の意図(糸)に気づける人は、お釈迦さま(神様)から特別なチャンスを与えられると感じます。
 
 
何か感じ入るところがあれば嬉しいです😌
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
お読みいただき、ありがとうございます😊

↓ほぼ日配信の通知を受け取るにはツイッター等のフォローをご利用ください↓