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いつもお読みいただき、ありがとうございます。
タカミチです。
唐突ですが、神様の存在を心から信じるためには、”阿保にならなければならない“と感じます笑
僕を含めた現代人は、物質社会に浸り過ぎて、眼に見えない存在を信じる能力が、限りなく退化しています。
脳の松果体という部位が見えないものを感じる第六感を司っていると言われますが、縄文人が親指大なのに対して、現代人は米粒大しか無いと言われているのです。
つまり基本性能として、現代人は霊感が限りなく制限されていると言えます。
神様を信じられる人が少なくても、しょうがないことかも知れませんね。
かくいう僕も、数年前までは死後の世界は無く、神様も宗教上の概念と考えていましたのでよく分かります。
死後の世界や神様を信じるためには、理屈ももちろん大切ですが、それ以上に阿保になることが大切だと感じます。
カッコよく言えば、ブルース・リーの名言、「Don’t think! Feel.(考えるな!感じろ。)」でしょうか。
でも、それ以上に的確なのが、”阿保になれ!“ということなのです笑
これだけだとあんまりなので、説明しますね。
近現代人が神様を信じられなくなった理由として、学力向上、産業・科学の発展に伴う唯物主義化があると感じます。
学問・科学が発展するのは素晴らしいことですが、その一方で社会の利便性が劇的に向上する中で、観えるものが全て、生きている内だけが全て、という錯覚が定着しました。
現に、「神様を信じています」と発言すると、宗教関係の人と思われて、引かれることが多いのは否めません(だから言わない方がいいです)
ひっそりと神様を信じるしかありませんが、孤独に観えない存在を信じ続けるというのは、なかなか難しいものがあります。
だからこそ、阿保に成り切ってしまう必要があるわけですね。
神様やご先祖様など観えないご存在へ意識を向けて、感謝を日頃から習慣化すると、個人差はあると思いますが、明らかにそれまでは無かった体験や感覚を覚えるようになるでしょう。
特に、弥勒の世への移行が本格始動している現在は、これまで以上に顕著になるでしょう。
これは、言葉で説明するのは非常に難しい、本人にしか分からない微妙な感覚です。
意識を向ける習慣を止めれば、たちまち忘れ去られるような、繊細な感覚だと思います。
しかし、意識を向け続ける限りは、恐らく誰しもが”魂が望んでいる感覚”として、心地よさを感じるでしょう。
この微妙な感覚を忘れないために、見えないご存在を信じ続ける必要があるわけですね。
しかしこの感覚は、ある意味で思い込み的であり、トランス的なので、「私は一体、なにを馬鹿げたことをしているんだろう…」という思いに囚われるかも知れません。
唯物的価値観からある程度の距離を置けるようになるまでは、こうしたモヤモヤした感覚が抜けず、すぐに唯物的現実に引き戻されるでしょう。
だから、「阿保でいい、阿保になろう」という、一種の開き直りにより、突き進む必要があります。
実は、『日月神示』でも日月の神様(国常立太神様=地球霊)が次のように仰ってます。
改心とはアホになることざぞ 世界中のアホ中々ぢゃ 中々アホになれまいがな。
役員 馬鹿にならなならんぞ 大のつく阿呆になれよ
また、学に囚われ観えないご存在を否定するような、現代的な”お利口さん”になるほど、神様が離れることも伝えています。
臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ
弥勒の世に向けて、阿保になっていきましょう笑
僕たちは松果体が阿保になってますから、「同じ阿保なら祈らにゃそんそん」ってことですね!
ちなみに、祈りの重要性については以下の動画がおススメです。
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日になりますように☺️