<保護猫活動記 その10>キジの最期を見守る
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
 
タカミチです。
 
 
 
愛猫・めいこがそうだったように、玄関で最期を迎えようと痛みと闘うキジの傍で、これを書いています。
 
 
 
さっき、仕事の受電中にキジが哀しそうに大きな声で鳴いていたので、仕事を早退して見守っています。
 
 
 
キジは寂しがり屋なので、妻が入浴中だったため見守る人が居らず、痛くて、怖くて、寂しくて泣いたのです。
 
 
 
僕が兄弟の中でも、とりわけキジに惹かれたのはここでした。
 
 
 
性格がとても優しく、愛くるしいのです。
 
 
 
頭を撫でてあげると嬉しそうにつぶらな瞳でジッと見上げてきたり、名前を呼ぶとニャン!と鳴いて喉をゴロゴロ鳴らします。
 
 
 
なんでこんな可愛い子猫が、激しい苦しみの中で早逝しなければならないのか、無情感に打ちひしがれています。
 
 
 
元気になれば、愛情を精一杯かけて、長く一緒に生きて行きたいと希望を持っていました。
 
 
 
というより、僕に財力があれば、広い平屋に移り住んででも、神社猫みんなを迎え入れたいくらいでした。
 
 
 
氏神様に育まれた神社猫たちへの奉仕活動は、ひいては氏神様、神様への奉仕活動も含まれると感じます。
 
 
 
今、キジに添い寝して撫でてあげていましたが、呼吸が72回/分(平均20〜40回)になっているので、その時が近づいています。
 
 
 
死前臭もしていますし、めいこの最期と全く同じ状況です。
 
 
 
栄養剤と点滴を打ち、暖かい家庭に居てすら2日でこの状態なので、2日前に林の中で丸まっていたキジを偶然見つけ、保護しなければ、間違いなくキジはあの後ひっそりと林の中で苦しみながら寂しく息絶えていたでしょう。
 
 
 
カラスに遺体を啄ばまれて、僕は悲惨なキジの亡骸を目撃していたかも知れません。
 
 
 
1匹の動物による大きな意識変革が、活動のきっかけとなった動物愛護活動家も多いでしょう。
 
 
 
僕も初めて保護したまるこや、愛猫・めいこの死、そして神社猫たちの保護活動と、キジの死期に直面する中で、意識は新たなステージに向かおうとしています。
 
 
 
“その辺の野良猫1匹”の保護が、後に多くの猫や犬を救っている例は、全国にたくさんあるでしょう。
 
 
 
だから、”目の前のひとつの命”に真剣に向き合う事が、世界を変えて行く礎になると感じますし、動物愛護活動家の共通の理念だろうと感じます。
 
 
 
少しでも、その大きな潮流に加われれば嬉しいです。
 
 
 
そもそも、なぜ保護猫、保護犬という悲しい動物が生まれたのかと言えば、人間の身勝手さである事は揺るがない事実です。
 
 
 
約5000年前のエジプトで、キジ猫の祖先であるリビアヤマネコを家畜化したのが始まりですが、神格化すらされていた猫が、文明の発展とともにモラルが低下し、その果てに日本は情け無い事にペット後進国という不名誉な汚名を背負うほど荒廃しました。
 
 
 
犬猫だけではなく、毎日のように世界で行われる家畜の殺処分も、目眩がするような規模なわけですね。
 
 
 
尋常ではない環境破壊も含めて、これまで人類が犯してきた過ちと業は、まさに今清算の渦中にあります。
 
 
 
2024年からは、本格的にその祓いを見守る過程に移ります。
 
 
 
ペット産業界の恩恵を受けてきた側として、それらを悪だと断じるつもりはありませんが、動物たちへの間違った人間の扱いも、これから急速に自然と祓われていくでしょう。
 
 
 
キジを見守りつつ、書き始めて6時間が経過しましたが、キジはほとんど昏睡して動かなくなったものの、さっき撫でてあげたら目を覚まして喉を鳴らしていました。
 
 
 
その時が近いようです。
 
 
 
明日も仕事がありますし、キジを見届けた後のやるべきことのためにも、そろそろ寝ようと思います。
 
 
 
めいこがキジを天国へ案内してくれるよう祈りつつ。。。
 
キジの安らかな最期に立ち会えたことに感謝します。

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