神様はおばあちゃん
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
先日の記事「<第十回タカミチの世見話>天地がひっくり返る」で書かせて頂いたように、本日はひとつの大地震や大噴火のXデーですが、今のところ無難に過ぎようとしています。
 
 
ただ、今日はいつも以上に示唆的な現象が起きていました。
 
 
朝6時に会社のシステムにログインするのですが、セキュリティーキーの端末に表示された本日最初に目にした数字の末尾が「666(獣の数字)」でした。
 
 
「うわぁ、、意味深過ぎる!」と思いつつも、OJT(新人研修)のサポート業務に入り、途中休憩でリビングに行くと風邪で学校を休んでいた娘がYouTubeを観ていました。
 
 
そして、娘が観ていたYouTubeチャンネルは、、なんと「バージョン666の呪われたマイクラ」でした笑
 
 
「いやいやいや、、さすがに今日そのチャンネルを観るのは露骨過ぎるでしょ!」と思いつつ、「本当に今日はヤバいのかなぁ。。」と感じながら業務に戻りましたが、次の休憩の時にTwitterに「地震が発生」とツイートがプッシュ通知されました。
 
 
正直ドキリとしました。恐る恐るツイートを開いてみると、震源地は沖縄本島近海で、危険とされていた東北地方ではありませんでした。これは、今日は無難に終わったという示唆かなぁ、とも感じています。残り3時間何事もないことを祈ります。
 
 
先日、「悟りを開く」ということについて多角的な視点で分析する記事を投稿しましたが、その後思うところがあり今は削除しています。
 
 
悟りを開いていない人間が、「悟りを開くとどうなるのか?」ということについて憶測であっても書く事は、どこか嘘くささが残るというか、「それじゃない感」がとても漂っていたのです。
 
 
もちろん、真剣に考え、出来る限りの分析をした上での記事でしたが、やはりお釈迦さまやラマナ・マハルシなど、実際に悟りを開いた人間でなければ、悟りについて語ると本質的な部分から大きく逸れてしまうと感じます。
 
 
「悟りを開く」とは、個々人の生きた時代や価値観により歩む道もゴールも変わってくると思いますので、「悟りを開くとこうなる」ということは書けないはずなのです。これは、悟りを開いた本人にしか、本当の意味で分からない境地です。
 
 
エンターテインメントとして楽しむ記事としてなら、多少の事実との食い違いや誇張があるものなので書くのは自由だと思いますし、僕も当初そのつもりで書いていたのですが、書き終えて読み返したところ、数日間「やっぱりこの記事を公開しておくのは違う気がする。。。」と悩んでいました笑
 
 
自分が思っていた以上に、”悟る”ということについて真剣だったようです。「悟りたい」と考える時点で悟りからは程遠いと感じますし、悟りたいと思っているわけではないのですが、「悟りを開く」ということを憶測を含めて書く事がどうにも許容できなかったようです。
 
 
確かに、お釈迦さまの教えが広まってからというもの、古今東西「悟りを開く」ための道筋を求めて語り記され、多くの修行者が目指した事実はあります。それは否定するものではありませんが、世間一般で語られてきた「悟りを目指す」という認識は、大きく誤解が生まれていると感じます。
 
 
「悟りを開く」とは目的ではなく、正しい生き方を追求した究極的な終着点であるというだけであり、「正しく生きるということは、どういうことで、どういう意味や目的があるのか?」ということを探究することが本質だろうと感じます。それを分かりやすく一言で表したのが「悟りを開く」というだけのことです。これは、本来は個人で考え完結できるはずの道です。
 
 
「森羅万象(神様)やご先祖様に感謝し、すべての執着や思い込みから離れて、在るがままに全力で生きること」が出来ていれば、誰もが自然といつかは悟りを開く時が来ると感じます。そのために、お釈迦さまを始めとした悟りを開いた人の教えはとても参考になりますが、本当に悟りを開く人というのは、根本的にはほとんど独りで完結してしまうだろうと感じます。
 
 
本質とはシンプルですから、誰しもが深く考えれば簡単に分かることだと感じます。それを簡単にさせず、人間を悩ませるのが固定観念から生まれる執着だと感じます。固定観念こそが”在るがまま”に在ることを阻害しています。
 
 
「悟りを開く」ということが注目されてきた背景の一つに、万物の真理を知り、人智を超えた神通力を開眼するというものがあります。しかし、悟りを開いたら特殊な能力を開眼するとか、死後に人類の共有意識に溶け込み神上がりするとか、そうしたことを悟りに一部であっても求める時点で、永遠に悟りを開く事はないと感じます。
 
 
そこにはすでに自我が入り込んでいますし、悟りを開く人というのは完全に個人利の外の人であり、あまねく全ての存在のために在るがまま存在している人でしょう。森羅万象そのものであり、あまねく全ての存在のために在るがまま存在している神様のように、です。
 
 
このことから、神様という存在が、どれほど有難く尊い存在なのかということが身に染みて感じます。僕たち人類が生きているのは当たり前ではありません。
 
 
根源の神様をはじめとしたあまねく神様方が、地球人を含むその他惑星のすべての生き物が生きられるように、精妙な法則により大宇宙を運営しているから僕たちも今日生きることが出来ています。
 
 
そして、神様方がその気になれば、明日にでも死ぬ可能性があるのが今という時代です。僕たちは現在、”スサノオの大祓”という薄氷の上を歩いていますし、ここ近年に世界中で起きている異常過ぎる気象や天変地異を観れば疑いの余地がありません。
 
 
”正しく生きる”ことの原点、それは森羅万象(神様)への感謝であることは間違いありません。そこを突き詰めていく先に悟りがあるでしょう。
 
 
たとえば、お隣のおばあちゃんが、毎日差し入れや、晩御飯のおすそ分けなど親切にしてくれれば毎日欠かさず感謝するのと同じように、森羅万象の恵みを毎日提供してくれている神様方は”観えないだけ”ですので、おばあちゃんに感謝するように感謝すべきでしょう。僕たちは、この「当たり前なことが出来るか」を試されています。
 
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日となりますように😊

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