富士山
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
記事「<悟りとは?>「悟りを開くとどうなる」という事を、求道者の視点で大解剖します!【改訂版】※8月28日更新!」にて、「悟りを開き覚醒する」という事について触れていますが、この記事では、日常の体験的で気づいたことを、不定期で追加していきたいと思います。
 
 
そのため、この記事は私の成長を記録する忘備録的な側面も含みます。
 
 
内容によっては重複する点があると思いますが、その時々の視点が含まれると思いますので、違った捉え方ができるでしょう。
 
 
生きる事の、何か参考になれば嬉しく思います。

「悟りを開く」とは、2通りの解釈がある <2023年8月28日追加>

 
「悟りを開く」と一口に言っても、その解釈は2通りに分かれると感じます。
 
 
ひとつは、お釈迦さまやラマナ・マハルシなどの聖者と同様に、真我に覚醒をするということ。
 
 
もうひとつは、”人生哲学”としての素晴らしい気づき(悟り)を得て、人生を豊かにしていくということ。
 
 
一般的な解釈は、ほとんど後者に比重が寄っているように感じます。
 
 
前者のような覚醒者を目指す人というのは、悠久の時を輪廻転生を繰り返し修行してきた、そうした因縁を持つ魂の人だと感じています。
 
 
それはある意味、魂の宿命によるところが大きいと感じますので、そうした因縁を持たない魂の人が覚醒者を目指すためには、大前提として「今生では完結しない」可能性を考える必要があるでしょう。
 
 
しかし、来世に覚醒の芽を繋ぐということは、魂・霊性の向上を大きく助けることに間違いはありません。

物理的な快・不快に対して、冷静に対応すること <2023年8月28日追加>

 
生きていれば、良いこともあれば、悪いこともあります。
 
 
悟りを開きたいと思うのであれば、こうした体験で発生する快・不快と上手く付き合わなくてはなりません。
 
 
快を感じる時は、素直に喜べばいいですが、その一方で冷静な視点を失うべきではありません。
 
 
快を享受して楽しんだ次の瞬間に、「感情が流されていないか」、「中立な視点は保たれているか」、など内観して、非本質的な思考に囚われていないか確認をする必要があります。
 
 
また、「この喜びの本質はどこにあるのか?」など思考することで、他人からの愛情や、森羅万象から享受している愛情などに気づき、感謝を深めることが出来るようになります。
 
 
不快を感じる時は、瞬間的な対応と、慎重な判断が求められます。
 
 
他人の言動にイラっとした、物事がスムーズに運ばず怒りを覚えた、など、不快だと感じた瞬間に、感情に流されないように、意識的に自我から離れる必要があります。
 
 
これについては、次の項目で説明します。

自我目線ではなく、自我から離れて他人のように接する <2023年8月28日追加>

 
悟りを開き覚醒したいと思うなら、自我に囚われていては、いつまでも達成が出来ません。
 
 
自分という人間(自我)を主観的に生きるのではなく、自分(自我)を傍観する立場、つまり自分(自我)の隣で伴走する真我の視点であったり、後ろ斜め上から俯瞰する霊的視点を意識することが重要になります。
 
 
自分(自我)を、まるで他人事のように捉えることが必要になってきます。
 
 
「自分(自我)とは、本当に自分(真我)なのか?」、「自分(自我)を見つめる事ができる、もう一人の自分(真我)は誰なのか?」という、自分(自我)を突き放して他人のように接することです。

自分(自我・肉体)とは、この世限りのレンタカー <2023年8月28日追加>

 
自分(自我・肉体)とは、魂(真我)ではありません。
 
 
自分(自我・肉体)とは、言ってしまえば、魂(真我)が現実世界を生きる為の肉体(乗り物)と、それを制御するコンピューター(自我)だと感じます。
 
 
ご先祖様のDNAや、産んでくれたご両親、それらを育む森羅万象による、この借し与えられている乗り物の性能は、個人の因果により差があります。
 
 
本田フィットの人も居れば、フェラーリの人も居るわけです。最初から中古のポンコツ車だったりもします。
 
 
これは、度重なる輪廻転生の中で積み上げてきた、善悪の因果により決定されます。
 
 
しかし、どんな車であっても、大切に整備し、乗りこなしていくことで、誰もが平等に悟りを開く道筋が示されます。
 
 
この愛車を、自我を離れた第三者目線で大切に乗りこなして行くことが、幸せの坂、自由の坂を上ることに繋がります。
 
 
この坂は、死後の天界にもずっと続きます。
 
 
輪廻転生とは、魂がこの世を冒険するためにレンタカー(自我・肉体)を借りて、冒険が終わり(死)あの世に帰る前に返却するという事だと感じます。
 
 
この時に磨いたドライビングテクニックが、死んだ後に魂にフィードバックされ、魂の性質が徐々に変化(成長・退化)していくのでしょう。
 
 
つまり、真我の視点からの輪廻転生とは、魂がこの世とあの世を行ったり来たりしているだけで、生や死は存在しないということです。
 
 
ドライビングテクニックを極めれば(真我に覚醒すれば)、二度とこの世というサーキットに出ることは無くなります(解脱)。

悟りを開き覚醒するということは、神意識になるということ <2023年8月28日追加>

 
神様とは、「息の長い存在」とも言われますが、絶え間なく動き続けている振動エネルギー体ですので、休むことなく働かれています。
 
 
そして、悟りを開き、真我に覚醒をすると、24時間365日、絶え間なく意識が覚醒している状態になると感じます。
 
 
Wikipediaでは、「継続的非記号体験」と表現されていますが、覚醒するということは心が内在神と融合し、完全に表に出てきた状態を表しますので、霊的な状態が神様と同様になると言えるのでしょう。
 
 
この物質世界では、物質のルールに従う必要があるため、睡眠を摂る必要がありますが、覚醒をすると睡眠時間が極端に少なくて済むと感じます。
 
 
もしかすると、肉体は休んでいても、意識は覚醒している可能性もありますが、この辺は体験者しか分かりません。

知恵ある魂は、貧者を選ぶ <2023年8月29日追加>

禅語
この物質世界で試されている事、それは森羅万象への感謝を忘れない事です。
 
 
そのため、知恵ある魂は、生まれ出る環境に貧困家庭を選んだり、貧困になる因果の設定を選ぶ傾向があると感じます。
 
 
この物質世界は、富めば富むほど、謙虚さを忘れ、感謝する事の重要性を考える事をしなくなる傾向があります。
 
 
学力や能力のある人は、自力で生きていると錯覚し、何者かであるために権威に固執し始める傾向があります。
 
 
これらは、たとえ頭では良くない事だと自覚出来たとしても、一度知った蜜の味は、忘れ難い、手放し難いものです。
 
 
それは自我の膨張であり、霊性の退化であり、知恵ある魂が最も敬遠する価値観です。
 
 
つまり、この物質世界では、貧者や能力に乏しくも、優しく謙虚に在れる人や、学や富があっても、そうでない人々よりも謙虚で感謝の気持ちを忘れない人が、真に成功している人になります。
 
 
そうした人は、何も知らない富者よりも、霊性を比べようのないほど高める事に繋がります。
 
 
なので、今が恵まれないなら、それは絶好のチャンスだと考えるべきであり、意識の転換次第で死後の大逆転が待っています。
 
 
私たちは、生きている間だけを切り取って損得を考えると、完全に本質から外れることになります。

悟りを目指すために、完璧主義にならない事 <2023年8月29日追加>

 
悟りを開き真我に覚醒するとは、解脱を目指す魂の本願であり、究極の完成を意味します。
 
 
だからといって、完璧主義的に悟りを遂行しようとすると、破綻、脱落の可能性が増します。
 
 
人生に浮き沈みがあるように、悟りにも一進一退があります。
 
 
悟る事を何度も繰り返し、それを忘れる事を繰り返し、そして戒める中で思い出し、次第に意識に定着、向上する中で、最終的な悟りに向かいます。
 
 
意識し続ける事が出来るか、緩やかでも諦めずに努力を続けられるか、それだけの問題です。
 
 
常に限りなく、在るがまま自然体で居る事が重要です。
 
 
そうすれば、度重なる悟りの末に、いよいよ真我覚醒の実りの時期が来れば、内在神が最後のきっかけとなる縁を贈ってくれる事でしょう。
 
 
そして、真我覚醒はゴールではありません。通過点です。魂の次元が上昇した新しい感覚の中での、人生の始まりを意味します。
 
 
今の社会生活そのままに、です。
 
 
人類進化のために、神意識、大我を体現する事になります。

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