一切皆苦
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
先日の記事「お釈迦さまが出家した理由「諸行無常を考える」とは?<前編>【辛い人生を受け入れる為の話】」を受けて、今回は「諸行無常を受け入れるためには?」ということについて、その考え方を書いてみたいと思います。
 
 
諸行無常について考える目的は何かというと、世間を正しく観る力を養うことだと感じます。
 
 
世間に惑う(魔道)ことが無くなって行きますので、常に心を中道に保つことが出来、格段に生きやすくなるということです。
 
 
お釈迦さまが説いた仏教の基本方針である「四諦八正道(しだいはっしょうどう)」の中でも、特に”正見(しょうけん)=物事は常に変化して存在していると認識して見る力”の感覚を磨くことに繋がると感じます。
 
 
「四諦八正道」については改めてしっかりまとめてお伝えできればと思いますが、今回は”正見”にフォーカスを当てて、諸行無常をいつも頭の中に置いておく重要性について考えてみましょう。
 
 

諸行無常を頭に置くとは、つまり死後の世界を頭に入れた合理性の中で生きることである

 
諸行無常についてのおさらいですが、ひとことで言えば「この世の全ては常に移ろい続けるものである」ということです。
 
 
平家物語にいう「盛者必衰」のように、どんなに栄華を極めてもいつかは必ず廃れてしまうものであり、松尾芭蕉が詠んだ「おくのほそ道」の名句「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」がそのままそれを表しています。
 
 
栄華を極めた藤原氏であっても、数百年も経てばその土地には夏草が青々と茂るのみであるという、栄枯盛衰を歌った句ですね。
 
 
繁栄を極める、、つまり現代的に言えばお金持ちになるのが悪い、無意味だ、と言っているわけではありません。
 
 
「そこに執着する生き方だと、世の中を”正見”出来ないため、たとえお金持ちや権力者に成れても心は人生に翻弄されるがままですよ」
 
 
ということであり、「諸行無常を考える」とは、まさに「移ろうものへ執着することへの無意味さを考える」ということに同義だと感じます。
 
 
なぜ無意味なのか?
 
 
お金持ちや権力者に成れれば、人生に余裕が生まれて色々なことが出来ますし、楽しくなる可能性が高くなることは間違いありません。
 
 
貧乏に喘いで、将来に不安を感じて生きるよりもずっとマシであることには違いありません。(僕はこっち側です)
 
 
でも、これらは”生きている間”を切り取って考えたものであり、”死んだ後の人生”を考慮していない考え方なのです。
 
 
死後の世界、、つまり霊界の真実を完全に知っていたお釈迦さまが、”死んだ後の人生”を考慮していない考え方を大衆に説くでしょうか?
 
 
原始仏典を鑑みると、お釈迦さまは直接的には死後の世界を説かなかったと言われています。
 
 
輪廻転生については説いていますが、「霊界とはどんなところで、どんな仕組みなのか」、「地上人と霊人の違いは何か」など、霊界の真実に関する教えは見当たりません。
 
 
お釈迦さまは実は生前こうしたことも説いていて、弟子たちが人類への影響が大きすぎると考えて、敢えて霊界の真実をぼかしたという可能性もあるのかもしれません。
 
 
というのも、歴史上の大霊格者は割と霊界の真実を大衆に説いていたりするものなのです。
 
 
最も影響力のあるお釈迦さまだけが霊界の真実を説かなかったとすれば、それは人類にそれを教えるのは早すぎる段階であり、同時に人類に最大の試練を与えたかったのかも知れません。
 
 
こう考えた時、お釈迦さまの教えとは「死後の世界に入った後に向けての魂の学習塾」と言えるのかも知れません。
 
 
「霊界大学が敢えてどんな所かは教えないけど、ちゃんと今のうちに勉強しておかないと死んでから後悔するよ」
 
 
ということだろうと、真面目に感じています笑
 
 
ここに、究極の合理性があります。
 
 
つまり諸行無常を考えるということは、いつかは霊界に入ることを前提として、この世の真理を合理的に、本質的に看破して生きる、ということだろうと感じます。
 
 
本質の対義語は現象、、つまり「目の前の移ろいゆく現象(諸行無常)に惑わされずに、本質的な物の観方をして生きる事」、これが”正見”だと思います。
 
 
これを追求し、「四諦八正道」を体得した人が「悟りを開いて真理に目覚める」ことになるのでしょう。
 
 
「悟りを開いて真理に目覚める」というと、なにやら超越者のような、エライ人のような感じがしてさも凄そうですが、そこが本質では無いのです。
 
 
「悟りを開いて真理に目覚める」という言い方が、あまりに使い古されていて胡散臭いイメージがありますので、現代的に「ITを駆使して超合理性に基づいてこの世を判断・看破する」と置き換えてもいいのです。
 
 
答えのすぐ分かるネットのある現代はある意味でチート環境だと言えます。(※チート=いかさま・裏技的)
 
 
ただし霊界の真実においては、本当に正しい真実を伝えているサイトは数えるほどしかないでしょう。
 
 
「悟りを開いて真理に目覚める」とは、言い換えれば徹底的かつ合理的にこの世の真実を見定めて、霊界大学の入試試験で満点を獲るための準備と言えます。
 
 
超難関の霊界大学に受かった後は何をするのか?、、それは、面接担当の神様と進路相談、となると思います笑
 
 
霊界でのやれる仕事は、この現実界よりも多岐に渡っているでしょう。
 
 
死んで霊界に入ってからが長いわけですから、人生の本番はある意味で死後なのです。
 
 
「四諦」のうちの”苦諦(くたい)”は、「生きることは本質的に苦である(一切皆苦)」と説いていますが、この世は霊界大学を目指すための受験勉強期間であるなら、苦であることに間違いないですね笑
 
 
逆に、ここに来られるあなたは、基本的に「死ぬことは本質的に楽である(一切快楽)」と成ると思います。
 
 
精神修行をして霊界大学を目指さずとも、慎ましく正しく生きる事が出来てさえいれば、死後はこの現実界とは違って、基本的に楽な世界になるでしょう。
 
 
この現実界で諸行無常を考える大切さを学んで、少しでも霊界大学を目指すつもりで居れば、苦そのものである現実界を逞しく生きるモチベーションになると感じます。
 
 
あの世で最高に楽しいお仕事に就く事が出来るかも知れませんね!
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日となりますように😄

↓ほぼ日配信の通知を受け取るにはツイッター等のフォローをご利用ください↓