諸行無常
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
前回記事「病気で溢れる時代に突入し、我が家も疲弊しています。。」で、不治の病気の時代が始まっていることを書きました。
 
 
難病と戦っている方々のツイートを見ていて、当人の方々は、とても複雑な感情が渦巻いていることだろうと感じます。
 
 
癌で余命宣告を受けている方で、残り短い命を大切に生きようと前向きで明るいツイートをしている方も複数おられましたが、内心はとても悲痛な思いでおられる方も少なくないと思います。
 
 
病気であってもなくても、「生きたい」という事と、「死を恐れない」という事を両立する気持ちの持ち方を考えた時、こうした闘病されている方々の姿に大きなヒントがあると感じます。
 
 
命に関わる病気の本当の恐ろしさは、自分自身がそうなってみなければ分かりません。
 
 
何事もそうですが、自分が体験をしてみなければ、本当の意味でそのことについては分かることはできません。
 
 
僕はありがたいことに、今までに大きな病気や怪我をしたことがありませんので、実際に体験されている方の苦しみというのは、想像の域を出ないわけですね。
 
 
しかし、病気や怪我で死に直面した時の無情感は、生きることの本当の大切さに気付かさせてくれる最大のイベントのひとつだろうと感じます。
 
 
この前提の上に立って、最近ずっと頭の中で漂っている、死生観を育む上で最も大切だと感じる”諸行無常”ということについて考えてみたいと思います。
 
 
闘病中の方もそうでない方も、生きる上での何かしらの参考になれば幸いです。
 
 

諸行無常とは?

 
諸行無常とは仏教用語ですが、Wikipediaから意味を参照してみましょう。
 
 
この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。

引用元:Wikipedia – 諸行無常

 
 
諸行無常の全てを説明しようとすると、とても小難しく長くなってしまいますが、小学校で習う平家物語の冒頭がそれを要約していると思います。
 
 
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」
 
 
現代語訳:祇園精舎の鐘の音は世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている。)」

引用元:Wikipedia – 諸行無常

 
 
お釈迦様は、祇園精舎の鐘の色に諸行無常を感じて出家を決意したとされています。
 
 
自身が釈迦族の王子だったわけですから、豪奢で煌びやかの生活をすることに本当の魂の自由はないと感じたのでしょう。
 
 
つまり、万物は全て因果によってたえず移ろい、どんな勝者であってもいつか必ず滅びるのだから、すべての物事に執着せずに、煩悩から解放されてあるがままの存在になることが真の魂の自由だと感じたのでしょう。
 
 
解脱をして涅槃に入ることが人生を完成させる最高のカタチであり、人類の悲願なのだと、お釈迦さまの神意を感じます。
 
 
涅槃とは、魂において最高に自由で幸福な状態だとされています。
 
 
目に見える豪華な宮殿(祇園精舎)も、煌びやかな宝飾も、贅沢な暮らしも、この”現実界における贅沢や煩悩とはまやかし”に過ぎず、そこに執着すると魂は不幸にしかならないと悟ったのだと思います。
 
 
この現実界とは、そうした”まやかし”に執着せずに、そこから離れて全ての悪因縁を昇華(消化)して、魂を完成させるための修行の場として神様が創ったのだと感じます。
 
 
それが出来た魂には輪廻の卒業証書が神様から授与されて、涅槃(真の極楽浄土=神界)に入ることが出来るのでしょう。
 
 
適度に楽しむ分には良いですし、何が”適度”なのかは、魂の境涯が上がるにつれて自ずと分かることだと感じます。
 
 
魂の境涯が上がるにつれて、物質よりも精神性の方が重要だと悟るため、やはり自然と現実界の煩悩には執着しなくなるようです。
 
 
ちなみに、お釈迦さまの前世のお話である『ジャータカ』が真実なら、神様はお釈迦さまに人類を代表してあらゆる苦を経験させて、人類の真理を解き明かさせる御役を与えていたのかも知れませんね。
 
 
諸行無常を受け入れるという事は、つまり「因果応報に逆らわずに、在るがままを受け入れる」という事だと感じます。
 
 
僕たち魂は、それぞれが度重なる輪廻転生を繰り返して、今生を含めた人生ごとの生き方によって発生した悪因縁を積み重ね、それを全て清算するために今回の人生を生きています。
 
 
この悪因縁とは、人生で発生する病気や怪我、事件を含む対人関係トラブル、その他日常の問題など、大小さまざまなカタチで返済を求められます。
 
 
つまり、苦しい体験をするほど、その人(魂)が積み上げた悪因縁が昇華(消化)されて、魂本来の姿に近づいていることになります。
 
 
 お釈迦さまが「この世とは苦である」と説いていますが、「苦を体験して魂を磨くために生まれて来ている」ということでしょう。
 
 
 この世で苦を体験することは当たり前であり、本来悪いものではないということですね。
 
 
 すべての苦の中を前向きに乗り越えて、楽の部分を精一杯楽しめた魂が涅槃に向かえるのだと感じます。
 
 
悪因縁の返済としての死を含めた苦がある一方で、悪因縁の昇華ではない救済としての死もあるようです。
 
 
その人(魂)が返すべき悪因縁の借金を返してしまい、輪廻転生の卒業が認められると、この現実界を早期に卒業する力が働くと言われています。
 
 
神様から「よく頑張ったね、神界に帰っておいで!」と、病気や災害などで人生を強制終了させられるようです。
 
 
生きている僕たちからすれば、ありがた迷惑な感じがしますが、涅槃とはこの現実界とは比べ物にならないほどの極楽浄土(神界)なので、死ぬときは辛くても、あの世に行った瞬間に「ヒャッホー!」となるかも知れませんね笑
 
 
現在、命に関わる病気や怪我で闘病中の方も、もしかすると救済の可能性もあるかも知れません。
 
 
死んだ後に霊体としての新しい人生が始まることを楽しみに出来れば、人生を最高のカタチで締めくくることが出来るでしょう。
 
 
ちなみに、僕の叔父は末期がんで逝去するまで、毎日ギターをかき鳴らして歌い、あの世に行けることを楽しみにしていたと母から聞きました。
 
 
一度臨死体験をした時に、霊界で死別した大切な人々と再会できたようで、そこ(天国)に行けることが分かったため楽しみだったようですね。
 
 
その臨死体験移行は、身内に「その時が来ても延命措置は絶対にするなよ!」と念押ししていたそうです笑
 
 
叔父のように明るく死を待つというのは難しいかも知れませんが、少しでも前向きに死を受け入れ穏やかになれた時、必ず天国に行けることでしょう。
 
 
僕も、森山直太朗さんの歌『生きてることが辛いなら』の歌詞に「くたばる喜びとっておけ」とあるように、「いよいよこれから(陰の)新しい人生が始まるなぁ。楽しみだなぁ。みんなありがとう。先に逝って待ってるよ」と思いながら死んで行けるように、残りの(陽の)人生後半戦を生き切りたいと思います!
 
 
長くなりそうなので、「諸行無常を受け入れるためには?」という人生のあらゆることを受け入れて行くための考え方については、改めて書きたいと思います。
 
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日となりますように😄

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