心のトレーニング
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 
 
タカミチです。
 
 
普段記事を書く時は、読者様が読みやすいように文節を短く切り、極力簡潔にまとめるようにしていますが、たまには頭の中にある内容をそのまま思うまま書いてみたいと思います。
 
 
たまに、最近感じていることを雑記として文脈考えずに殴り書きたいと思います。普段の記事では書き切れず省いていることも書くつもりなので、興味があればぜひお読みくださいませ。
 
 
記事「<第七回タカミチの世見話>食が細くなった健康な人は霊性進化の可能性がある」にて、娘の拒食症について触れましたが、もうすぐ1か月になります。まだほとんど満足に食べることが出来ませんが、基本的に娘はとても元気です。一応改善の兆しもあります。
 
 
まだ学校へ行く事への恐怖心が強いようですね。ようやく今日何とか説得して、午前中に早退することで行ってくれましたが、給食時にひとり食べないので、友達から色々言われるのが辛いそうです。まぁ、確実に良い方向には向かっていますので、しばらく様子を観たいと思います。
 
 
月に2回、市立病院でカウンセリングも受けていて、焦らずにゆっくりと治していくことが出来ると感じており、妻の心身疲労も落ち着きつつありますので、僕も安心感が戻ってきました。
 
 
僕はリアルでは霊的なことは一切語らない普通のおじさんですが、本当は因果の法則を始めとした霊的な法則について、少しでも教える事が出来れば娘も生きやすくなるのかなぁ、と思ったりもします。でも、こうした話は自分が望んで探して知ることであり、率先して教える事では無いと感じています。そもまた個人の持つ縁・因果ですから。
 
 
人生で体験する苦は、その人の成長に必要だから発生します。それがどんな苦であってもです。今回の娘の過食症と、サポートする僕と妻の苦もそうです。しかし、これは因果の法則を知らない大多数の人にとっては、残酷なシステムだと感じます。
 
 
相談に乗らせて頂いている方で、とても悲惨な苦が波状攻撃のように訪れる方もいます。平均的な因果の持ち主なら、一生に一度体験するかしないかというレベルの苦を、短期間で何度も体験します。時には殺人に匹敵するような苦を、です。生まれから始まって、人生自体が過酷な苦で構成されている感じです。
 
 
ある意味、その人にとってはこの世は地上の地獄です。生きることへの絶望を味わうような苦であっても、その人(魂)にとっては必要な苦なのですから因果の法則はとても残酷です。なぜなら、その人にとっては、この今生の現実が全てであり、例え過去生の自分の因果の返済だとしても、過去生の自分なんて言ってしまえば他人だからですね。僕も、自分がそこまでの因果を背負っていないから、こうして冷静に言えるのかも知れません。
 
 
全ての人生が自分であると感じられる時というのは、死して魂に戻り、しばらく滞在する中幽界を抜けて霊界に戻り、そこで長い時を過ごすうちに今生の自我が薄れて魂本来の姿に戻った時でしょう。その時に経験したいくつもの人生の因果を初めて理解すると思います。そして、「あぁ、因果を全然返し切れてないじゃん。また現実界に生まれて魂を鍛えたいなぁ」と、トレーニングジムに入会したいような気分になるわけですね笑
 
 
で、神様に「生まれたいんですけど」と相談に行くわけですが、霊界で成すべき事(罪の償いなど)が未完了だったり、何万人、何十万人という順番待ちだったり、優待券を持っている人(魂)が先だったりして、中々現実界に生まれ出る機会を得られないわけですね。なので、今回生まれることが出来た僕たちは、その渇望の先を生きているわけです。
 
 
霊的なことを知れば知るほど、「あぁ、死んだ後のことを考えて生きなきゃいけないなぁ」と、思わざるを得ないんですよね。しかし、これは人によって感じることは様々であり、「別に霊界に戻ってもそれなりでいいから、今やりたい事をやり切って生きよう」という人も居るでしょう。その方が多いと思いますし、正解はありません。僕は単純に、霊界に戻ってやりたいことがあるから、その自由度を上げるためにも、今生で魂を磨くことに力を入れているだけなのです。夢を追う野球少年や難関国立受験生と一緒です笑
 
 
探究し始めた最初の頃は、現実的な楽しみを制限していくことに強い葛藤もありましたし、今も完全に無くなったわけではありません。霊界を観る霊眼も無いので、霊界のことは実体験としては分かりません。でも、確かに霊界はあるのです。知識や体験した状況証拠から導き出される論理と、理屈を超えた感覚としか言いようがありません。この現実界は、霊界を無くしては在りえません。
 
 
現代は、人類史上で最も多くの人が霊的なことをリアルに考えることが出来なくなった時代だと感じます。煩悩を刺激するモノに溢れすぎて、科学が発展するにつれて、霊的な存在を概念的なもの、嘘っぽいものに感じる人が増えてしまったためでしょう。くどいようですが、だからと言って悪いわけではありません。煩悩に生きるもまたよし、です。その魂の選択ですから、良いも悪いもないのです。煩悩に生きて来た多くの魂があるからこそ、人類のひとつの完成形である2039年の弥勒の世の到来があると言えます。
 
 
その一方で、僕の自身の願いは「煩悩、我執を出来るだけ小さくして、小さな幸せにも安心して生きられるようになって欲しい」と思います。どっちやねん、という話ですが、”目覚めた人”が増えれば増えるほど、神様方が現実界で活動しやすくなり、結果的に世界がより平和になって行きますので、その目的で「たまむすび」を始めました。
 
 
向上心を持たないといけない訳でもありません。要は、その人が生きやすく感じる生き方がベストなのです。心を鍛える努力をするというのは、あくまで「その方が生きやすくなる可能性が高いから」とりあえずやるのであって、誰もが心の修行に励まないといけないわけではありません。現状維持で、小さな幸せに満足し続けられるのであれば、それはその人の才能でしょう。
 
 
ただ、人生で一度くらいは、「死後の人生は在るものとして、今回の人生の生き方を見直してみる」ことは、これを考えなかった時よりは、人生への真剣度が上がり、幸せな方向を見つけやすくなると思います。
 
 
今後、「頑張らないで幸せを目指す考え方」に関する記事も増やしていきたいと考えています。
 
 
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。
 
明日も善い一日となりますように😄

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